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2011年8月 1日 (月)

『この人を見よ』(ニーチェ)

「神は死んだ!」

この言葉が西洋哲学の根幹を揺るがし、思考のパラダイムを問い直した。

F・W・ニーチェは、1844年にドイツのレッケンで、
ルター派の牧師の長男として生まれた。
ボン大学からライプツィヒ大学へ転じ、
その頃にペシミストとして知られるショーペンハウアーの影響を受け、
その後の人生を彩る音楽家ワーグナーと出会っている。

1872年に『悲劇の誕生』を刊行し、ヘレニズム文化への回帰を唱える。
34歳のとき病魔に冒されバーゼル大学を辞め、
その後は乏しい恩給に頼りながらスイスやイタリアを転々とし、
旺盛な著作活動を続ける。

85年に代表作『ツァラトゥストラかく語りき』を書き上げる。

1889年、ニーチェが44歳のとき、イタリアのトリノの広場で昏倒し、
そのまま精神錯乱の状態が続き、1900年にワイマールで逝去する。

哲学のみならず文学、芸術に強い影響を及ぼし、
ニーチェをどう捉えるかを座標軸に、さまざまな新しい文化が生まれていった。

『この人を見よ』が書かれたのは、1844年の秋、
ニーチェが正気を保っていた最後で、自らの思想と作品を総括した自叙伝である。
自らの言葉に対する確信と、それが受け入れられない現実の狭間で、孤独な魂が呻いている。

「私の任務の大きさと、当代の人々の小ささの不均衡からして、
誰も私の声を聴きもしなければ、見ることさえもしなかった。
よく聴きたまえ、私はこういう者だ。見違えてはいけない」

「私の著作の空気を呼吸する力のある者なら、
それが高山の空気、強烈な空気であることを知っている。
人はこれに適するように造られていなければならぬ」

ここまで自己肥大化しなければならないのは、ニーチェは神と対峙することで、
人間が人間である存在理由を明らかにしたかったからである。
ニーチェにとってキリストの存在は、絶対に乗り越えねばならぬ課題であり、
人間が本来の姿を取り戻すのを阻む障壁であった。

ニーチェが超人という概念を打ち出すのも、
弱い存在である自らを克服し、神と向かい合うために必要だったからであり、
決して人間の中の等級を認める試みではなかった。

「今や我、汝らに命ずる。我を捨て、汝自らを発見せよと。
かくて汝らすべてが我を否定したとき、我は汝らに復帰するであろう」

執拗なほどにニーチェは、自分自身のディテールを語り、人間という存在を掘り下げる。
絶対神とのバランスをとるには、自らをどこまでも高みに登らせねばならない。

ニーチェが投げかけた問題に、私たちは応えきっていない。

私が私として生きる。

その意味を問い直したときに、
ニーチェは重要なテーマとして浮かび上がってくる。

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