« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

2011年8月 6日 (土)

『地下生活者の手記』(ドストエフスキー)

ドストエフスキーが生まれたのは1821年、
モスクワのマリヤ貧民救済病院の医師の二男である。

10歳のときに父が農奴6人の村を手に入れ、理想的な農村社会を形づくろうとしたが、
18歳のときに農奴の恨みを買った父が惨殺される。

17歳でペテルブルグの工兵士官学校に入学し、卒業後は工兵廠に勤めたが1年で辞職し、
学生時代に耽読したプーシキンやゴーゴリの影響を受け、職業作家への道を進もうと決意する。
処女作は、1845年に刊行された『貧しき人々』である。

その後に空想社会主義への関心を深め、フーリエの思想を学ぶサークルに接近したが、
逮捕されて死刑の判決を受ける。
銃殺の直前に皇帝の特赦があり、シベリアの監獄に繋がれることになる。
この異常な体験は『白痴』や『罪と罰』の中で、生々しく物語られている。

4年間の懲役を終えて、5年間を中央アジアのセミバランチスクで兵卒として勤め、
ようやくペテルブルクへの帰還を許される。

兄ミハイルと共に雑誌『時代』を創刊し『死の家の記録』や『虐げられた人々』を発表する。
暗く重い作風が確立されていった。

『時代』は長続きせず、次いで創刊された『世紀』もうまくいかなかった。
さらにドストエフスキーにはてんかんの持病があり、賭博にのめり込む悪癖もあった。
生活が逼迫する中で、しかし『白痴』『罪と罰』『悪霊』『永遠の夫』と、
次々に名作が生み出されていった。

1875年に『未成年』を刊行し、
79年から80年に生涯の総括とも呼べる『カラマーゾフの兄弟』を書き上げる。
この頃になってドストエフスキーの名声は高まったが、
1881年に肺動脈破裂で逝去する。

『地下生活者の手記』が刊行されたのは1864年、
数多くの長編を手がける前であり、さまざまな伏線がちりばめられている。
閉ざされた空間の中でのモノローグという設定も、
社会という開かれた空間では生きられない孤独感が漂う。

ここで描かれる小官吏の言葉は独善的で、他者を平気で傷つける。
自分は居直ったままで、他者に無限の理解を求める。
醜悪な業の深さに思わず目を背けると、
文章の中に描かれているのは自分自身と気づかされる。

意識したときから、人はしだいに病んでいく。

さまざまな想念を思い巡らせながら、人は肉体という牢獄に押し込められている。
私とあなたは、ついに交わらない。
その事実を踏まえなければ、コミュニケーションをとれない。
「自立」というテーマを考えるとき、示唆されている問題は果てしなく深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 5日 (金)

『変身』(カフカ)

グレーゴル・ザムザは、ある朝目覚めたら、巨大な虫になっている。
それにも関わらず、彼はいつものように朝の支度をしようとするが、
虫にはどうすることもできない。

この特異なシチュエーションが、すでに私たちの日常に対する鋭い問題提起になっている。
私たちの誰もが、いつどこでグレーゴル・ザムザの境遇に置かれるかもしれない。

フランツ・カフカは1883年に、チェコのプラハで生まれる。
ドイツのユダヤ系商人の息子として生まれた血筋が、彼の生涯に大きな影響を及ぼしている。
プラハ大学で法律を学び、労働者災害保険局に22年間勤めたが、彼はこの仕事を嫌っていた。

私生活でも決して幸福ではなく、同じ女性と二度も婚約したが、結婚に至らず破局を迎える。
1917年に結核を患ったのを契機に職を辞して文筆生活に入ったが、
愛する女性との同棲生活も束の間、
結核が重くなり1924年にキールリングのサナトリウムで死去する。

作家として活動した期間は短く、
13年に小品集『観察』を刊行し、15年に『変身』、19年に『流刑地にて』、
24年に『断食芸人』などがおもな作品である。
代表作として広く知られる『審判』『城』『アメリカ』は、すべて遺稿として刊行される。

カフカのテーマは一貫して、理不尽な運命に翻弄される個人である。
そこに描かれた世界は、カフカの没後に台頭するナチズムによって、
悲劇的な人生をたどらされる同胞ユダヤ人の運命を予言しているかのようだ。
その色彩は、果てしなく重く暗く深い。

虫の姿になったザムザは、誰よりも愛する家族からも邪慳に扱われる。
父母が嘆き悲しんでいたのは、
彼自身であるよりも、彼によって支えられていた生活の崩壊である。
唯一人献身的に看病してくれた妹も、
彼が下宿人を驚かせたことに怒りの牙を剥き出しにする。

その翌朝にザムザは死に、家族たちの重荷は取り除かれる。
嬉々としてピクニックへ出かける情景は、透明で爽やかに描かれている。
ザムザという存在が、最初からなかったように、家族は日常生活を取り戻し、
貧しくも穏やかな生活を営むと想像できる。

ザムザにとって、解決のない物語である。
悲しみも癒されず、怒りもぶつけられず、ザムザは淋しく死んでいく。
虫になった彼には、闘うことすら許されない。

カフカの生涯は、居場所を求めてさすらいながら、
どこにも自分の場所を探し出せず、居心地の悪さを感じ続け、
次々と困難な状況が訪れたに違いない。

世界が敵として対峙したとき、個人に何ができるのだろうか。
不透明な空気の中で、独白を繰り返すしかないのか。

社会の機能が高度に発展し、個人をすくい取れなくなれば、
そこに闇が生じるのは今も変わらない。
『変身』に描かれた情景は、決してお伽話ではない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 4日 (木)

『異邦人』(カミュ)

「今日ママンが死んだ。それとも昨日か、僕は知らない」

虚無的な書き出しで始まる『異邦人』は、
主人公ムルソーが、灼熱の太陽のせいで殺人の罪を犯し、
母の葬式に煙草を吸い、コーヒーを飲み、泣かなかったことで裁かれる。
<不条理>というキーワードが、鮮烈な問題提起として心に響く。

アルベール・カミュは1913年、
当時フランスの植民地だったアルジェリアで生まれる。
翌年に父が死に、カミュは兄と共に母に育てられる。

貧しい生活だったが、カミュは才能を認められ、
教師の尽力によりリセに進学し、そこでJ・グルニエと出会う。

グルニエは『孤島』などで知られる作家で、
博学な知識を踏まえた会議主義的な作風であり、初期のカミュに大きな影響を及ぼした。
17歳で喀血し、医師から死を宣告されるほど重い結核を患ったカミュは、
その4年後に最初の結婚の相手に逃げられている。

溢れるほどの知性と、苛酷な環境の中で、カミュは当然のように反政府活動に身を投じ、
40年にアルジェリアから追放される。
「パリ・ソワール」紙に就職するが、ドイツとの戦争が激化し、
パリが占領される動乱期を迎え、カミュは各地を転々とせざるを得なくなる。

こうした環境の中、『異邦人』や『シーシュポスの神話』を執筆し、
43年から「コンパ」紙の編集長として、レジスタンス運動に参加する。
サルトルからも高く評価され、戯曲『カリギュラ』や『誤解』も好評を博し、
この頃が最も華やかな時代であった。

その後に懐疑主義的色彩を濃くしたカミュは、
『ペスト』『反抗的人間』などの作品により、
サルトルとの思想的立場の違いを明らかにして、思想界、文学界で孤立していく。

その心象風景は『転落』『追放と王国』などに表現され、
1960年、突然の交通事故で生涯を閉じた。

『異邦人』には、カミュの孤独な魂が、凝縮されて宿っている。
ムルソーは自らの行動を論理的に総括できず、自らの心を理不尽に断罪されていく。
肉体という壁に隔てられ、お互いの心を歪めながら受けとめるストーリーに、
恐れおののいたのは30年以上昔の話だ。

M・マストロヤーニの主演で映画化された作品を観た後、
新潮文庫を何度も読み返し、私は文学の世界に足を踏み入れた。
ムルソーは紛れもなく私の投影であり、
私もまた誰からも理解されないと思い込み、ひたすら活字の世界へ逃げ込もうとしていた。

今読み返しても『異邦人』が突きつけた乾いた世界は、
うち捨てられた個人のやりきれなさが伝わってきて、
その場に立ち尽くしてしまう。
やさしい無関心になど抱かれたくない。

モノローグという表現形式も、自らの心の奥深く誘い、私は一時期カミュにのめり込んだ。
それぞれの作品の不調和が、さらに人間の不可解さを表しているように思われた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 3日 (水)

『学校と社会』(デューイ)

J・デューイは、1859年にアメリカのバーモント州バーリントンで生まれる。
バーモント大学、ジョンズ・ホプキンス大学に学び、
ミシガン大学、シカゴ大学で教鞭を執った。
プラグマティストの哲学者であり、教育者である。

プラグマティズムはW・ジェームズが提唱したアメリカを代表する哲学であり、
観念や思想を行為との関わりの中で位置付け、
有用な結果を導く観念が真理とすることから、実用哲学と訳されることもある。

ジェームズの主著『プロティスタンティズムと資本主義の倫理』を読めば、
現実を踏まえて向上させようとする意志が明らかに伝わってくる。

デューイはその思想をさらに発展させ、
観念は状況を変える道具であり、真偽よりも有効性が問われねばならないと説く。

その方法論は仮説から検証を経て行動へ移すものであり、
経験主義と見なされることもあるが、最初に目指す策定ではむしろ理想主義に近い。

学校そのものはプラトンの時代から存在したが、
教育現場の中心は教師であり、知識を伝えることがおもな役割であった。

こうした伝統的な手法を疑問視したデューイは、
シカゴ大学付属小学校を設立し、自らの理想を実践に移した。
このプロセスを踏まえて書かれたのが『学校と社会』であり、
日本を初めとして世界中の学校教育に強い影響を及ぼす。

「男の子たちにボタンを縫いつけたり、
着物を繕ったりする準備を与えるという見地から見るなら、
我々は狭い効率的な考え方に立つことになり、
それでは学校におけるこの種の作業に高い地位を与えるわけにはいかなくなるだろう」

「しかしながら、もし我々がこれを他のひとつの側面から見るならば、
この種の作業は子どもが歴史における人類の進歩の跡をたどる出発点となり、
同時にまた子どもはそこから、
使用される材料および必要とされる機械的原理に対する洞察をも得るに至ることを見いだす」

デューイの教育論が必ずしも正鵠を射ているとは思わないが、
子どもたちと真正面から向かい合って、本人の成長と社会への適応を願っていた。
子どもたちが自律的に行動を起こせるように、あらゆる場所で気づきのヒントを仕掛ける。

デューイが亡くなったのは1952年、それほど遠い昔ではない。
デューイの精神の根幹は、日本の学校教育にも受け継がれているはずなのだが、
実際の教育現場は偏差値を重視して荒れ果てている。
一人ひとりの子どもの可能性は、充分に引き出されていない。

教育という分野にこだわらず、人が人を育てる視点に立てば、
『学校と社会』は重要なマイルストーンである。

現実との距離を測りながら、どうしてできないのか、どうすればできるのか、
問題意識を鮮明にして読むことで、間違いなく得るものがある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 2日 (火)

『永遠平和の為に』(カント)

『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』など、
近代西洋哲学を完成された巨人カントは、
1724年にドイツのケーニヒスベルク(現在はロシア領)で生まれ、
同地の大学で教鞭を執りながら数多くの著作を刊行し、
1804年に老衰で大往生している。

ニュートンが万有引力の法則を発見するなど、自然科学の急速な発展を背景にして、
哲学もまた科学的な色彩を濃くしていった。
観念世界の思考実験から、現実社会での検証を経て、
哲学が提言としての役割を果たすうえで、カントが遺した業績は大きな意味を持つ。

『永遠平和の為に』が刊行されたのは1795年、
すでに主著を世に送り出したカントが71歳のときである。

ドイツでは86年にフリードリヒ大王が死去し、
フランスでは89年に大革命が起こっている。
時代が急激に変化するシグナルが送られている。

「常備軍は、常に武器を取って立ち得る用意ができているから、
他国をして常に戦争の危機を感じさせ、このようにして無際限兵備の優秀を競うようにさせる」

カントは武力による威嚇を踏まえた交渉を認めない。
武力の増大が恐怖を募らせ、お互いを疑心暗鬼にさせると知っている。
軍と軍の衝突は、そのまま命の奪い合いになる。

「国家としての諸民族は、それぞれが一個人の如きもの。
すなわちその自然状態に於いては、互いに並存しているだけで、
すでに互いに害を加え合う如きものと考えられてよい。
だから彼らはそれぞれの自己の安全のために、そこに於いて彼らの権利が保障され得る如き、
公民的体制に類似した体制に入ることを、他に対して要求することができ、
また要求すべきなのである」

この思想が現実に落とし込まれ、国際連盟から国際連合へ発展していく。
理念としての不充分を内包していたとしても、
私たちの現実はそれさえも乗り越えられていない。

「自然の機械的過程の中には、人類の意志に反してもなお、
彼らの不和を通じて和合を将来せしめようとする合目的性が、明瞭に現れている」

カントの言葉は、人間に対する希望である。
それぞれの立場、利害を超えて、共生するための提言を、さまざまな形で繰り返し述べている。
コスモポリタン(世界市民)の夢を語っている。

政治とは無縁なところから発せられた理性だからこそ、
私たちは公平かつ客観的に真意を捉えて、現実の諸問題を解決していかねばならない。
そうした意味で『永遠平和の為に』は、今なお私たちの座標軸である。
古臭いと言い切れないのは、平和の構造が変わっていないからだ。

200年以上を経ても輝きを失わないのは、カントの偉大さなのか、
それとも人間の愚かさなのか、考えさせられる。
言葉は圧政に潰されるが、圧政は有限で、言葉は無限だ。
言葉が生きているうちは、私たちは次のステージへ進んでいない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 1日 (月)

『この人を見よ』(ニーチェ)

「神は死んだ!」

この言葉が西洋哲学の根幹を揺るがし、思考のパラダイムを問い直した。

F・W・ニーチェは、1844年にドイツのレッケンで、
ルター派の牧師の長男として生まれた。
ボン大学からライプツィヒ大学へ転じ、
その頃にペシミストとして知られるショーペンハウアーの影響を受け、
その後の人生を彩る音楽家ワーグナーと出会っている。

1872年に『悲劇の誕生』を刊行し、ヘレニズム文化への回帰を唱える。
34歳のとき病魔に冒されバーゼル大学を辞め、
その後は乏しい恩給に頼りながらスイスやイタリアを転々とし、
旺盛な著作活動を続ける。

85年に代表作『ツァラトゥストラかく語りき』を書き上げる。

1889年、ニーチェが44歳のとき、イタリアのトリノの広場で昏倒し、
そのまま精神錯乱の状態が続き、1900年にワイマールで逝去する。

哲学のみならず文学、芸術に強い影響を及ぼし、
ニーチェをどう捉えるかを座標軸に、さまざまな新しい文化が生まれていった。

『この人を見よ』が書かれたのは、1844年の秋、
ニーチェが正気を保っていた最後で、自らの思想と作品を総括した自叙伝である。
自らの言葉に対する確信と、それが受け入れられない現実の狭間で、孤独な魂が呻いている。

「私の任務の大きさと、当代の人々の小ささの不均衡からして、
誰も私の声を聴きもしなければ、見ることさえもしなかった。
よく聴きたまえ、私はこういう者だ。見違えてはいけない」

「私の著作の空気を呼吸する力のある者なら、
それが高山の空気、強烈な空気であることを知っている。
人はこれに適するように造られていなければならぬ」

ここまで自己肥大化しなければならないのは、ニーチェは神と対峙することで、
人間が人間である存在理由を明らかにしたかったからである。
ニーチェにとってキリストの存在は、絶対に乗り越えねばならぬ課題であり、
人間が本来の姿を取り戻すのを阻む障壁であった。

ニーチェが超人という概念を打ち出すのも、
弱い存在である自らを克服し、神と向かい合うために必要だったからであり、
決して人間の中の等級を認める試みではなかった。

「今や我、汝らに命ずる。我を捨て、汝自らを発見せよと。
かくて汝らすべてが我を否定したとき、我は汝らに復帰するであろう」

執拗なほどにニーチェは、自分自身のディテールを語り、人間という存在を掘り下げる。
絶対神とのバランスをとるには、自らをどこまでも高みに登らせねばならない。

ニーチェが投げかけた問題に、私たちは応えきっていない。

私が私として生きる。

その意味を問い直したときに、
ニーチェは重要なテーマとして浮かび上がってくる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »