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2011年7月14日 (木)

『日本風景論』(志賀重昴)

日本は風光明媚な国であり、
天橋立や厳島、松島の日本三景に代表されるように、その美しさを讃えた文人墨客は数多い。
しかし1894年に志賀が刊行した『日本風景論』では、
気候、海洋、地形などを実地に観測し、比較に基づく地理学として日本の風景を位置付ける。

志賀は1863年に愛知県岡崎市に生まれ、父は没落した士族で幼い頃に他界している。
上京して15歳で東京帝国大学予備門に合格したが、
経済的な理由もあり17歳で札幌農学校に進んでいる。
卒業後は教師を務めた後、今も書店と出版社として繁盛する丸善に就職する。

志賀が論壇にデビューしたのは、太平洋諸国の見聞記である『南洋事情』だが、
これを契機に三宅雪嶺と出会う。

三宅は志賀より三歳年下で、東京帝国大学文学部哲学科を卒業し、
東京大学編纂所で『日本仏教史』を編集した後に、評論家として独立していた。

1888年に志賀と三宅は、杉浦重剛や井上円了らと政教社を設立し、
国粋主義を主張する雑誌『日本人』を刊行する。
当時は鹿鳴館に象徴される欧化政策が華やかな時代状況だったから、
志賀ら若い世代の反骨精神は、純粋なナショナリズムへ向かったに違いない。

三宅の女婿は中野正剛であり、杉浦や井上も含めて政治的オピニオンリーダーに成長し、
日本画回線に踏み切る世論を形成するのに一定の役割を果たしたが、
志賀は41歳のときに衆議院議員の総選挙に落選してから政界を離れ、
一介の地理学者として生涯を捧げている。

『日本風景論』は志賀が31歳、日清戦争のさなかに刊行されている。
1908年までに13版を重ねたのは、
読者である知識層に国家意識が高まったという背景もある。

フィールドワークを踏まえた手法が普遍性を持たせ、
今の私たちが読んでも納得できる客観性を保っていることは見逃せない。
四季折々の美しさの背景には、
寒温熱三帯の気候風土、親潮や黒潮の海流、風が影響を及ぼしている。

日本列島を貫く火山帯は豊富な温泉を湧き出させ、
複雑に入り組んだ海岸線は多様な光の乱舞を誘う。
幅が狭く高い山脈に貫かれた日本の地形は、
それぞれの地域にさまざまな環境をもたらし、独特の文化を育んでいる。

志賀が描いた世界を、私たちは今も受け継いでいる。

コンピュータが普及し、生活のスピードが加速する時代だからこそ、
私たちは疲れたときに自然に癒されたいと望む。
実際に出かけてみると、郷愁を誘う風景は次々と失われ、
都市と地方の距離は縮まっている。自然の中に人口の造形物が立ちはだかっている。

そんなときに『日本風景論』を開くと、見たこともない描写なのに懐かしさがこみあげる。
私たちが置き忘れた風景が、この本の中には息づいている。

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