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2011年7月22日 (金)

『人生の短さについて』(セネカ)

セネカは紀元前4年頃、
修辞学者として知られる父の二男として、スペインのコルトバに生まれる。
幼い頃にローマで哲学と修辞学を学び、財務官から元老議員へと栄達したが、
その才能を皇帝カリギュラに嫉妬され、死刑に処される運命を辛うじて免れた。

その後もクラディウス帝の時代に、
皇后メッサリーナの策略によって、8年の間コルシカ島に流される。
後に皇帝に即位するネロの母、アグリッピナに呼び戻され、ネロの教育係を任された。
即位後も執政官として皇帝を補佐したが、意見を採用されなくなり引退する。

文筆生活に入ったセネカは、65年にビソの陰謀に加担したとして、
自ら死を選ぶように命じられる。
ローマ帝国の華やかな時代に、権力の中枢に位置しながら、
豊かな才能と見識の故に疎まれて、最期には自らの手で命を絶たねばならなかった。

セネカは、ストア学派を代表する哲学者として知られるが、
これは紀元前3世紀頃にキプロス島に生まれたゼノンから始まる流れで、
人間生活の一切を正しく処する実践的な知恵を重んじる。

自然に従って生きながら、情念に流されない人を賢者とするから、
自己拡大願望の強い皇帝たちにすれば、セネカは煙たい存在であったに違いない。

『人生の短さ』の中でセネカは、
「白髪や皺があるから長く生きたとは言えない。彼らはただ長く在ったのに過ぎない」
「彼らは長い間航海した者ではない、長い間打ち流された者である」と語る。
生きることは全生命をかけて、学ばなければならないことである。

飽食と遊興に明け暮れる貴族に、
「夜を期待することによって昼を失い、夜明けを気遣うことによって夜を失う」
「輿に乗っているか否かわからねば、自分が生きているか否か、もちろんわかるはずがない」
と容赦ない。享楽的に生きる人をセネカは認めない。

セネカにとって理想の人生は、
「我々より優れた人々と共有できる過去の世界に全精神を以て没入」するものであり、
「一日が決心した通りに過ぎた日が幾日あったか、
いつ自分自身を自由に駆使するときがあったか、
自分本来の顔をどれだけ保っていたか」を問い返し、
「全生命をかけて死ぬことを学ぶ」プロセスである。これはこれで、かなり窮屈だ。

今の私たちがセネカの言葉を受けとめるなら、
流されずに生きることなく、自らの意志を持てということだろう。
世の中が豊かになり潤うほど、私たちは思考停止の状態へ陥っていく。
さまざまな現象に観客として立ち会っても、当事者として自らを省みようとしない。

「人生は繁忙のなかに推し進められていき、
心の平静は決して得られることなく、常にただ念願される」
この言葉の持つ意味の重さは、私たちの胸にズシリと響く。

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