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2011年7月16日 (土)

『論語と算盤』(渋沢栄一)

日本資本主義の父と称された渋沢栄一は、
1840年に、埼玉県本庄市郊外の血洗島で生まれた。

父は苗字帯刀を許された富農だったが、
理不尽な御用金の調達を申し付ける代官に、口答えひとつ許されないのが農民の立場である。
幕末の嵐が吹き荒ぶ時代背景で、渋沢は父の名代で接した小役人の態度に憤慨し、
武士として身を立てねばならないと決意する。

渋沢は倒幕の志士として高崎城乗っ取りや横浜焼き討ちを計画するが、
何れも挫折した後に、ふとした縁で一橋慶喜に仕える。
慶喜が最後の将軍としての運命をたどるのに、渋沢は影のように付き従い、
幕臣として明治維新を迎えることになる。

スタートしたばかりの明治政府は人材に飢え、渡欧経験のある渋沢にも白羽の矢が立ち、
税制や予算体制の基礎を確立し、国立銀行創立のための準備に奔走し、
第一国立銀行の総裁になったまでのプロセスは、今では多くの人が知っている。

その後も王子製紙や日本郵船など500社以上の創業に関わりながら、
それらを渋沢財閥として組織することもなく、生涯を閉じた。

『論語と算盤』は、渋沢の精神的バックボーンを明らかにした書として重要である。

「与えられた仕事に不平を鳴らして往ってしまう人はもちろん駄目だが、
つまらぬ仕事と軽蔑して力を入れぬ人もまた駄目だ。
およそどんな些細な仕事でも、それは大きな仕事の一部分で、
これが満足にできなければ、ついに結末がつかぬことになる」

渋沢がたくさんの企業と関わりながら、一つひとつを大切にしていたことがよくわかる。
日本経済全体を視野に入れ、それぞれの重要性を認識していた渋沢に、
万に一つも手抜かりはない。

「常に周囲に敵があってこれに苦しめられ、
その敵と争って必ず勝ってみましょうの気がなくては、
決して発達進歩するものではない」

「私の信ずるところを動かし、これを覆そうとする者が現れれば、
私は断固としてその人と争うを辞せぬ」

渋沢にこの激しさがなければ、人は付いていかなかった。
渋沢は晩年に社会福祉事業に大きな貢献をしているが、
自分の身を捨て世の中の役に立とうとする精神は、生涯変わらず貫かれていた。
私利私欲のない渋沢だから、言葉の一つひとつがさわやかである。

「有要な場合に有要な言を吐くのは、できるだけ意思の通じるように言語を用いなければ、
せっかくのことも有耶無耶中に葬らねばならない。
禍のほうばかり見ては消極的になりすぎる。
極端に解釈すれば、ものを言うことができないようになる。
それではあまりに範囲が狭すぎる」

けだし名言である。

渋沢は乗り越えるにはあまりに高い峰だが、
そこを目指さなければ日本を再生させる真意に至らない。

この人物の重さに、私たちは気づくべきである。

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