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2011年7月 8日 (金)

『三酔人経綸問答』(中江兆民)

日本のルソーと称された中江兆民は、1847年、幕末の土佐藩に生まれている。

倒幕の急先鋒の環境に置かれながら、
兆民は維新の志士にならず、フランス語を覚えて洋書を読み漁っていた。

それでも坂本龍馬や武市瑞山の神通力なのか、
大久保利通の尽力で司法省に出仕し、岩倉具視に随行してフランスへ渡った。
しかし官僚としての生活は長続きしなかった。

兆民の人生の転機になったのは、板垣退助らの自由民権運動である。
1881年に西園寺公望が創刊した『東洋自由新聞』の主筆になると、
兆民は水を得た魚のように民権思想普及と明治政府攻撃に活躍した。

政府の保安条例で東京を追われたが、その後に自由党員として衆議院議員に選出される。
自由党内の軋轢で議員を辞してからは、思い通りの人生を歩めなかった。

兆民の人脈は幅広く、弟子である幸徳秋水は『社会主義真髄』を著し、
明治天皇暗殺計画の首謀者として刑死する。

秋水の入社した『萬朝報』の社主、黒岩涙香や、キリスト教者、内村鑑三とも親交を結び、
普通選挙期成同盟会を結成した木下尚江とも近かった。

一方で東亜同文会や国民同盟会を組織し、大陸進出を唱えた近衛篤麿にも賛同している。
この流れには大陸浪人として有名な宮崎滔天や、国家社会主義者として一時代を築き、
2.26事件の黒幕として死刑を宣告された北一輝がいる。極左から極右まで兆民で繋がる。

兆民が40歳のときに刊行した『三酔人経綸問答』には、
こうした内面的葛藤が色濃く反映されている。
西洋近代思想を代表する洋学紳士、拡大政策の国家主義を主張する豪傑君、
弁証法的な現実主義者の南海先生、どの登場人物も兆民の分身である。

「自由を軍隊とし、平等を要塞にし、博愛を剣とするなら、
敵とするものが天下にありましょうか」と問う洋学博士に対し、
「憤怒は道義心の表れで、道義心のある者で怒らない者はいない」とする豪傑君は、
勝利を求め快楽を願い、努力するのが人間的本質ではないかと問い返す。

南海先生の出した結論は「政治の本質は国民の意向に従い、国民の知的水準と見合いつつ、
平穏な楽しみを維持させ、福祉の利益を得させること」と踏まえ、
「外交上の良策とは、世界のどの国とも平和友好関係を深め、
万やむを得ない場合にもあくまで防衛戦略を採り、遠く軍隊を出征させる労苦や費用を避け、
人民の彼の重荷を軽くするよう尽力」するのが重要とする。

今の時代から見れば新しさはないが、明治の代では勇気がなければ口に出せない言葉である。
昨今の外交政策を顧みると、南海先生の常識的な発想さえ、忘れられているような気がする。
兆民の人権主義を理想論として切り捨てるのか、それとも基本的コンセンサスとして守るのか。

今だからこそ私たちの問題として突きつけられている。

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