« 『耳嚢』(根岸鎮衛) | トップページ | 『都鄙問答』(石田梅岩) »

2011年7月 1日 (金)

『風流志道軒伝』(平賀源内)

土用の丑の日に鰻を食べるのは、日本人なら当たり前のように考えているが、
実は平賀源内のコピーに乗せられて、幕末から始まったブームの延長に過ぎない。
博覧会のひな形になる物産会も発案し、エレキテルや寒暖計など実利的な発明品を紹介した。

源内は1728年に讃岐国志度浦に生まれ、
21歳で家督を相続したのを機会に白石姓から平賀姓に改め、
その3年後には藩命で長崎に遊学している。

高松藩主、松平頼恭に幼少の頃から才能を認められ、
大きく花を開かせる舞台を与えられていた。

しかし長崎でオランダの文化に接した源内は、さらに広い世界での躍進を望んだ。
25歳で家督を妹婿に譲り江戸に上ると、水を得た魚のように活発に動き始める。
風来山人と号して戯作に手を染めた33歳には、正式に藩に願い出て天下の浪人となる。

『根無草』『神霊矢口渡』など戯作や浄瑠璃を著す一方で、
大和の吉野山から秋田藩領内まで鉱山を調査、開発し、
国学、西洋画法、陶磁器など幅広い分野で才覚を発揮している。
飛ぶ鳥落とす勢いの田沼意次にも知遇を得て、その支援によって再び長崎遊学を果たしている。

ところが46歳のときに秩父中津川の鉱山経営に失敗し、
翌々年にエレキテルを医療器具として事業化しようと試みたが、
大名や豪商からの後援を受けられず頓挫する。

この頃に書かれた『風流六部集』は、
憤怒と自棄に揺れ動く文章で、世間を痛烈に批判している。

失意の日々を重ねる源内は、ついに人を殺めて入牢する。
わずか1ヶ月後、その獄中で病魔に襲われ、52歳の波瀾万丈な生涯を閉じる。

今の時代に生まれていたなら、世界的なプロデューサーとして成功を収め、
悠々自適の余生を楽しんでいたかもしれない。

風流志道軒伝』は源内が35歳の著作だから、風刺が前面に出ているわけではないが、
それでも歯に衣着せない表現は、当時から源内の独自性を際立たせている。

「唐の風俗は日本と違って、天子が渡り者同然だから、気に入らなければ取り替える。
天下は一人の天下でなく、天下のための天下など、
減らず口を言い散らして主人の天下を盗むような不埒千万な国だから、
聖人が現れて教え導かねばならない」

こうした文章を発表して何のお咎めも受けなかったのは、
源内の人脈がどれほど強固だったかを物語っている。

素直に読めば紛れもなく幕府批判であり、朱子学の否定である。
門松を千代松と祝う風習を笑い、根がない拵え物が長く生きられるはずがないと看破する。

源内は幕末の世に許された異星人であり、刹那的にも未来を切り取る境遇を得た。
それだけに組織に捕らわれない日本人の原風景が、源内の言葉の端々からこぼれ落ちている。
私たちの想像力がどこまで拡大できるのか、自らの可能性を示唆してくれる人物である。

|

« 『耳嚢』(根岸鎮衛) | トップページ | 『都鄙問答』(石田梅岩) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/99210/40310724

この記事へのトラックバック一覧です: 『風流志道軒伝』(平賀源内):

« 『耳嚢』(根岸鎮衛) | トップページ | 『都鄙問答』(石田梅岩) »