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2011年7月 3日 (日)

『日暮硯』(馬場正方)

『日暮硯』は信州松代藩の家老、恩田木工の藩政改革の事績を伝えたものである。

江戸時代中期の藩政改革が、日本企業再生のヒントに繋がると考えられ、
恩田木工は上杉鷹山などと共に注目された人物だ。
この時期に『日暮硯』について書かれた書物も少なくない。

信州松代藩は戦国の名将、真田昌幸の家系であり、
信之の代に上田から松代の地へ転封されている。
善光寺平の肥沃な平野に恵まれているが、犀川と千曲川が合流するために水害が多く、
修復を図らざるを得ないため藩の財政は逼迫していく。

恩田木工が家老として辣腕を振るったのは、六代藩主、真田幸弘のときである。
幸弘はわずか13歳で家督を相続し、すでに家老職であった恩田木工を信頼し、
木工が40歳のときに勝手御用兼帯を命じ、藩主に代わり会計や事務全般を取り仕切らせた。

木工の改革は成果をもたらし、幸弘は松代藩中興の名君と称されるようになるが、
木工自身は1762年に46歳の生涯を閉じることになる。
松代藩がいかに厳しい状況に置かれ、
木工が心身共に追い詰められていき、命を削ったことは想像に難くない。

御側衆が藩主の関心を引こうと、鳥を飼うように進言した逸話が記されている。
木工は大きな鳥籠を誂え、進言した家臣をその中に住まわせる。
それを見ていた藩主は鳥を飼う思いを捨て、贅沢を慎み倹約を励む。

その一方で進言した家臣を責めず、忠義の心を評価して金十両を与えている。
ここまで心を砕いていけば、神経がすり減るのもやむを得ない。

木工が勝手御用兼帯を受けるときの覚悟も凄まじい。
家中全体の了解を強く求め、妻子や親族どころか家臣にまで縁切りを迫る。
わが身を滅ぼそうとも、孤立無援で闘い続ける決意を示し、実際に志し半ばで倒れていく。
藩主の信頼に対して、全身全霊を傾けて応えた。

木工の改革は、質素倹約を錦の御旗に掲げ、苛烈を極めたわけではない。
悪徳役人を処罰する際にも、
「これらの者どもは善い指導者が使えば善くなり、悪い指導者が使えば悪くなる」
と藩主を説き伏せ、彼らの能力を最大限に活かしきった。

領民に対しても
「相応に楽しみをせよ。慰みには博打なりとも何にても好みたることをして楽しめ」と、
日々の生活が窮屈な意識で捕らわれないように配慮する。
それでいて賭博の流行が行き過ぎると、毅然とした姿勢で敢然と改革を断行する。

恩田木工の真骨頂は、こうした現実に則したバランス感覚である。

それを発揮するためには、常に細心の注意を払いながら、私心を捨て決断せねばならない。
組織を革新するにはシステムを入れ替えるだけでなく、人の心を揺り動かさねばならないと、
木工は私たちに教えてくれる。

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