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2011年7月 2日 (土)

『都鄙問答』(石田梅岩)

洋の東西を問わず長い間、学問は原則的に支配者のものであり、
庶民が知識に接するようになってからの日は浅い。

日本でも江戸時代に寺子屋が普及し、ようやく読み書き算盤が手の届くものになった。
その背景にあるのは近世の経済成長だが、道を切り開いた先駆者の存在を忘れてならない。
代表的な人物が、石門心学を広めた石田梅岩である。

梅岩は1685年に、丹波国東懸村で農家の石田家に生まれた。
農家といっても苗字を許されているのだから、恵まれた環境で成長したと想像される。
11歳で京へ丁稚奉公に上がり、15歳で帰郷したが、
23歳のときから京の商人、黒柳家に仕える。

幼少期から求道精神に溢れ、独学で仏典や孔孟、神道などを読みあさり、
35歳のときに小栗了雲と出会い師事する。
その後も真実を探る葛藤は繰り返され、43歳のときに奉公を辞し、
京都車屋町で私塾を開いたときには、すでに45歳の齢を重ねていた。

『都鄙問答』は梅岩の思想をまとめたもので、
「道話」と呼ばれる形でわかりやすく展開する。
人間は基本的に平等と説きながら、士農工商それぞれの本分をまっとうすると諭す。
とりわけ商いの道に対しては、積極的に肯定的な見解を示す。

忠孝を重視した儒教をベースにしながらも、
老荘思想を縦横無尽に採り入れ、仏教や神道もこだわらずに溶け込ます。
一見矛盾しているようだが、庶民の生活感覚と合致するところが多いから、
梅岩の思想は燎原の火のように急速に浸透していった。

『都鄙問答』には、思想としての新しさはない。
すべて古典を庶民の視点で解釈し、実践に役立つように説き明かしている。
辻褄の合わないところもあれば、強引な繋げ方も決して少なくない。
しかしそれでも現実に生きる人たちに、強い説得力を持っていたのは間違いない。

寺子屋の手習い本に使われただけでなく、
江戸佃島の人足寄場へ教えに赴いたり、飢饉に際して施米などの救済に走ったり、
梅岩を中心とした門下生の行動が庶民の耳目を集め、
言葉の一つひとつが信頼されるようになったことも重要である。

梅岩の弟子である手島堵庵や中沢道二によって、
町人が学ぶことを怪しまない時代が訪れた。

幕末や明治の日本の動乱期を支えた人々には、農家や商家を出自とする者が多かったが、
その根源をたどれば、石田梅岩の処世哲学が存在している。

質素と倹約、正直と精励など、梅岩が説いたのは庶民が本来持っている倫理観であり、
ことさら新奇な思想を紹介したわけではない。
しかし不鮮明な意識に言葉を与え、方向性を明らかに示すことで、
庶民のモチベーションを刺激した梅岩が果たした役割は大きい。

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