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2011年7月12日 (火)

『善の研究』(西田幾多郎)

『善の研究』は、近代日本で最初の独創的な哲学書として知られ、
著者の西田幾多郎は京都大学で教鞭を執り、
後に京都学派と呼ばれる人文社会学者を多く輩出させている。

西田は一八七〇年に石川県の河北郡に生まれている。
浄土真宗の盛んな土地柄で、西田哲学に宗教的色彩が濃いのも、
幼児期からの風土的影響かもしれない。

金沢の第四高等学校では鈴木大拙と同級で、生涯にわたり親交を温めたという。
東京大学で井上哲次郎、ブッセやケーベルらに学んだ後には、
金沢の卯辰山洗心庵で雪門和尚に師事している。

西田は哲学の前提として、実在する自意識の直覚を挙げている。
デカルトが『方法序説』の中で述べている「われ思う、ゆえにわれ在り」と同じ出発点で、
自分を認識する観念から世界を捉えようとする発想だ。
自分が死んでしまったら、世界は消滅するに等しい。

デカルトが数学的な方法論を用いて客観的に世界へたどり着こうとしたのに対し、
西田は個人の主体的意識と個別な価値観から世界に近づこうとする。
それが普遍性を得るためには、誰もが認める価値観が求められる。

西田にとって「善」とは、
「実在の完全なる説明は、単にいかにして存在するかの説明するかではなく、
何のために存在するかを説明しなければならない」という問いに対する答である。

「知識においての真理は直ちに実践上の真理であり、
実践上の真理は直ちに知識においての真理でなければならない」という言葉も、
陽明学派が唱えた「知行合一」と通ずるものがあり、
西田の哲学が人生論に極めて近い性格を帯びているとよくわかる。

「意志の発展完成は直ちに自己の発展完成となるので、
善とは自己の発展完成ということができる。
すなわち我々の精神が諸々の能力を発展し、円満なる発達を遂げるのが最上の善」であり、
「まず個人性の実現をせねばならぬ。すなわちこれが最も直接的な善である」と、
『善の研究』では結んでいるが、これは明らかに主体の確立と自己実現の勧めである。

『善の研究』が刊行されたのは一九一一年であり、
西田が禅宗の影響を強く受けていることから、難しい言葉も多く用いられ、
古くさい印象を与えているが、実は私たちにとって親しみやすい内容である。
仏教からものの見方考え方を借りていても、宗教的結論へ導いていない。

一〇〇年近くも前の富国強兵が叫ばれていた時代に、
自分らしく生きることが人生の命題と西田は説いている。

その根幹に共感し、数多くの自由な発想が京都大学に根づいていった。
それがさまざまな分野に波及して、今の私たちの意識に強い影響を及ぼしている。

『善の研究』を難解な哲学書と決めつけず、柔らかな気持ちでページを開けば、
今も私たちに教えてくれることは少なくない。

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