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2011年7月 6日 (水)

『氷川清話』(勝海舟)

明治維新は紛れもなく暴力革命で、官軍、幕軍共に多くの血を流したが、
徳川の拠点である江戸の街と江戸市民は、壊滅的な打撃を受けずに保護された。

幕府から全権を委ねられた勝海舟が西郷隆盛の申し出を受け、
江戸城をあっさりと引き渡し、将軍を駿府へ移したからである。

海舟は1823年に御家人、勝小吉を父として生まれた。

無官の御家人ということもあり長屋住まいで、伝えられる逸話によると小吉は武士らしくない。
酒を飲み、喧嘩もするが、幼い海舟の背に一本筋を通し、
やさしさと強さが大切であることを伝えてくれた。

ペリーが率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し、ロシア使節プチャーチンが長崎に入港し、
薩長の不穏な動きが京都を揺るがし、幕府という組織に瓦解の危機が訪れたときに、
勝海舟が表舞台に立つ準備がようやく整った。
長崎の海軍伝習所が、そのスタート地点である。

海舟の名を一躍高めたのは、
日本で初めて太平洋を横断する咸臨丸の艦長に任じられてからである。

この渡米によって海舟は日本という国を意識し、
国際社会の中で生きていく必要性を知った。

坂本龍馬が海舟を暗殺しようと訪れ、逆に説得されて世界貿易への志を抱くのは、
海舟が帰国して軍艦奉行に就いてから後の話である。

幕臣でありながら維新の功労者と評価された海舟は、
明治政府から重用され元老院議員や枢密院顧問官などを歴任し、伯爵の称号を授かる。
しかし海舟の本質は生粋の江戸っ子で、
明治の元勲も市井の人々も同じまなざしで捉えていたと、『氷川清話』を読めばわかる。

坂本龍馬は西郷に対し「小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。
馬鹿なら大馬鹿で、利口なら大利口」と評しているが、
海舟はその龍馬を「坂本が西郷に及ばないのは、その大胆識と大誠意にある」と鋭く射抜く。

「大きな人物というものは、そんなに早く顕れるものではない、通例は百年の後だ。
いま一層大きな人物になると、二百年か三百年後だ」と、
坂本龍馬や西郷隆盛の大きさを語れるのも、
彼らと同じ時代を呼吸し、生き残ったからこそである。

その一方で料理屋の女将の見識を紹介し、的を射ていると素直に賞賛する。
爵位や俸給を受けるのも、断る理由がないというだけで、自ら望まないのも海舟らしい。

「俺などは生来人が悪いから、ちゃんと世間の相場を踏んでいるよ。
上がった相場もいつか下がるときがあるし、下がった相場もいつかは上がるときがあるさ。
その上り下りの時間も、長くて十年はかからないよ」

そう達観しているからこそ赤坂の屋敷には、実にさまざまな人々が寄ってくる。
来る者は拒まず、去る者は追わず、海舟は誰に対しても分け隔てなく語りかける。
天衣無縫で融通無碍の人柄が行間から滲み出ているから、
『氷川清話』は今なお温かく新しい。

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