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2011年7月15日 (金)

『日本文化史研究』(内藤湖南)

内藤湖南は1866年に、秋田県鹿角で生まれている。
5歳で『四書』や「二十四孝』を素読し、12歳で頼山陽の『日本外史』を読んだという。
繰り返し音読することで記憶に刷り込まれ、湖南の発想のベースを形づくったに違いない。

17歳で秋田師範学校に入学し、卒業後は一時教師を務めたが、二年後には編集者になる。
書き手となった20代では『日本人』を主宰する三宅雪嶺に近く、
30代になると幸徳秋水や境利彦を擁する『萬朝報』に論説委員として招かれる。

今の私たちの分類に従えば、国家主義者と社会主義者の間を行き来しているように見えるが、
『萬朝報』を主宰した黒岩涙香に代表されるように、当時は思想の境界線があいまいで、
お互いの主張の重なる部分も多かった。湖南は中国通のジャーナリストとしての地歩を築く。
湖南と同郷の狩野亨吉に京都帝国大学へ招かれた二年後に教授となり、
その翌年には文学博士となって、湖南はいつの間にか学者となり、
東洋史の碩学と称えられるまでになる。
しかし『日本文化史研究』を読むと、湖南の本質は学者ではなく評論家である。

「日本には文化の種ができあがっていたのでなく、文化になるべき成分があったところへ、
他の国の力によってだんだん寄せられ、ついに日本文化という一つの形を成したのでは」

「今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、
古代史の研究をする必要はほとんどありません。
応仁の乱以後の歴史を知っていれば、それでたくさんです。

それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感じられませんが、
応仁の乱以後は我々の真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、
これを本当に知っていれば、それで日本歴史は充分だと言って良い」

着眼点はおもしろいが、学問として捉えるなら大胆と言うより乱暴である。
守護大名から戦国大名に切り替わる応仁の乱で線を引くのは、
講談の影響を受けたかと怪しむほど湖南の直感だけが根拠になっている。
合理的と評価する人もいるが、論理は根本的に破綻しているように読める。

それでも「歴史というものは、いつでも下級人民がだんだん向上発達していく記録」と、
本質的なところを見据えているから、評論として読む限りは一面の真実を描いている。
それだけに一方では、さまざまな論法に利用される危険性も孕んでいる。

事実という素材をどのように切り取って、自らの主張へ転換させていくのか。
論理ゲームのテキストとして『日本文化史研究』は興味深い。
これを下敷きに史論を発展させた学者がいることを思えば、
歴史認識を共有するのはそれほど簡単でないと想像できる。

『日本文化史研究』を読み終えたら、湖南に対する評価はひとまず置いておき、
自らの思考回路がスムーズに流れているか、冷静に客観的に問い直したい。

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