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2011年7月31日 (日)

『空想より科学へ』(エンゲルス)

マルクスの盟友エンゲルスは、1820年にドイツのバルメンで生まれた。
8人兄弟の長男で高校を中退して家業を手伝い、その後も職を遍歴し軍隊の経験もある。
そのプロセスで労働者の実情に接し、
共産主義の思想を確立すると共に、さまざまな論文を投稿するようになる。

父は会社の共同経営者だったから、決して貧しい生活ではなかったが、
ヘーゲルの弁証法に傾倒し、さらに推し進めた左派として活動するうちに、
マルクスと運命的な出会いを果たした。

マルクスが学究生活に没頭したのに対して、
エンゲルスは20年に渡りビジネスマンとして働き、
最後は支配人にまで昇格し、マルクスの経済生活を支え続けた。

69年には現場を退いたが、75年までは共同出資者として関わり、
ブルジョワジーとして生計を立てていたのも、どこか皮肉な思いがする。
その翌年から『反デューリング論』『空想から科学へ』
『家族、私有財産および国家の起源』『フォイエルバッハ論』などを次々と執筆した。

マルクスの死後は遺稿の整理に携わる一方で、第二インターナショナルをサポートし、
ロンドンで実施された第一回メーデーの参加を呼びかけるなど、
精力的に社会主義の普及に努めた。
しかし病魔に冒され、1895年に食道癌で逝去する。

『空想より科学へ』は、元々『反デューリング論』の中の3つの章を、
加筆修正してパンフレットとしてまとめたものである。
サンシモンからフーリエ、オーウェンへ至る社会主義思想の系譜を追い、
唯物史観に基づく弁証法哲学の正当性を明らかにする。文章は過激で攻撃的である。

「これまでのすべての歴史は、原始状態を別にすれば、階級闘争の歴史であった」

「社会のそのときどきの経済構造が現実の土台をなしているのであって、
それぞれの歴史的時期の法的および政治的諸制度や、
宗教的、哲学的、その他の見解から成り立っている上部構造の全体は、
究極においてこの土台から説明されるべきである」

「一切の社会変動と政治的変革の究極の原因は、人間の頭の中にでなく、
つまり永遠の真理や正義を認識していくことでなく、
生産と交換の様式の変化に求められねばならない」

「ブルジョアジーは個々人の生産手段を、
多数の人間全体によってのみ使用され得る生産手段に換えることなしには、
これらの制限された生産手段を強力な生産手段へ変えられなかった」

ヘラクレイトスの『万物流転』からダーウィンの『種の起源』まで、
エンゲルスは博識を援用して、ヘーゲル哲学の前提を踏まえながら、
新しい哲学の誕生を高らかに宣言する。

多少強引な印象は免れないが、一面の心理があると納得するのも、
エンゲルスの説得力の凄さである。
時代背景を考えれば、的確な想像力にも驚かされる。

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2011年7月30日 (土)

『賃労働と資本』(カール・マルクス)

資本主義社会に対するアンチテーゼとして科学的社会主義を提唱したK・マルクスは、
F・エンゲルスとの共著『共産党宣言』で、20世紀の思想哲学に揺るぎない地歩を築く。
否定するにせよ、肯定するにせよ、避けては通れない大きな存在である。

マルクスは1818年にドイツのトリールで生まれ、
ボン大学からベルリン大学へ学び、ヘーゲル哲学を中心に、法学や歴史学を修めた。
大学卒業後は唯物論の先駆者として知られるフォイエルバッハの影響を強く受ける。

1842年に刊行された「ライン新聞」に、最初は寄稿者として関わるが、
後に主筆となって健筆を振るい、政府から睨まれて廃刊のやむなきに至る。

1843年に生涯の盟友となるエンゲルスと出会い、
翌々年に名著として知られる『ドイツイデオロギー』を共同で執筆。
この間に『経済学哲学手稿』も刊行され、共産主義者としての方向が固まっていく。

48年に刊行された『共産党宣言』は、
マルクスとエンゲルスの思想拠点を明らかにした。
マルクスは自らを労働者階級として位置付けた。

エンゲルスと共に精力的な執筆活動を展開したマルクスは、
1883年にロンドンで生涯を閉じる。

その後にエンゲルスによって遺稿の中から『資本論』がまとめられ、
カウツキーによって『剰余価値学説史』がまとめられ、
マルクスの経済観は不動の地位を築いた。

『賃労働と資本』は、マルクスが書いた経済学の入門書である。
1847年にブリュッセルのドイツ人労働者協会での講演を「新ライン新聞」に連載し、
それから広い範囲でパンフレットとして流布されている。

マルクスの死後にその思想の変遷を踏まえ、
91年にエンゲルスが修正を加えた版が、今の私たちが読む『賃労働と資本』である。

「単純な労働力の生産費は、労働者の生存費と繁殖費ということになる。
この生存費と繁殖費との価格が、賃金を形づくる。決められた賃金は、最低賃金と呼ばれる」

「資本は賃労働を前提とし、賃労働は資本を前提とする。
両者は互いに制約し合い、両者は互いに生み出し合う」

初期の資本主義社会に対して、マルクスの指摘は鋭く正確である。

しかし社会構造が大きく変化した今となって、経済の本質的構造は同じでも、
階級対立という概念は、私たちの想像力では及ばなくなっている。
それぞれが複層的に入り乱れているのは、紛れもない事実である。

だからといってマルクスの提起した諸問題が、乗り越えられたとは考えられない。
経済を下部構造と看破し、文化などの上部構造への影響を説いたのもマルクスである。

レーニンからスターリンに引き継がれたロシア革命は、
国家社会主義へと変貌した果てに、ソビエト連邦の崩壊へ至ったが、
それはマルクスの存在理由を否定したことではない。

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2011年7月29日 (金)

『諸国民の富』(アダム・スミス)

「あらゆる国民の年々の労働は、
国民が年々消費する生活の必需品と便益品のすべてを供給する源であって、
この必需品と便益品は常に労働者の直接の生産物であるか、
またはその生産物で他の国民から購入したものである」

今では常識と思える記述だが、王侯貴族に捧げる行為を労働と見なしていた時代に、
労働者が主役であると明らかにしたことで、私たちは経済の新しい時代を迎えた。

『諸国民の富』を著したスミスは、
1723年にスコットランドのカコーディで生まれている。

14歳でグラスゴー大学に入り、17歳でオックスフォード大学へ進む。
その後グラスゴー大学の教授に任用され、しばらくは平穏な日々を暮らした。

スミスを一躍有名にしたのは、1759年に刊行された『道徳情操論』である。
経済学者の前に倫理学者として評価され、
それが経済学に人間性を吹き込む結果をもたらしている。
豊かな収入を保証され、『諸国民の富』を書き上げるのに10年の歳月を費やせた。

「人それぞれの才能の違いは、
私たちが気づいているよりも、実際はずっと小さいのである。
さまざまな職業に携わる人たちが、成熟の域に達したとき、
一見その人たちを区分するように見える天分の差異は、
多くの場合、分業の原因というより、むしろその結果なのである」

ピン製造をモデルとして、分業の効果を説くエピソードも含め、
スミスは人間を等質なものとして捉えている。
システムをきちんと整備すれば、成果を導けるとする組織論は、今でもまったく古びない。
スミスの発想の延長線上に、私たちは組織と個人を理解している。

「労働の豊かな報酬は、その増殖を刺激するように、同じく庶民の勤勉さをも増進させる。
勤勉というものは、人間のすべての資質と同様に、それが受ける刺激に比例して向上する」

「自由に放任して、人々の産業を彼らの状況にできるだけ適応させ、
何らかの利益のあるような仕事を見つけさせたほうが、社会にとっても最も有利なのである」

これが資本主義の原則であり、大まかな枠組みは今も変わらない。
国家の保護および干渉が当たり前だった時代に、
スミスの描いた世界は根源的で本質に迫っていた。

国家を繁栄させるには、富を蓄積しなければならない。
そのためには国民を規制するより、自由な経済行為に任せ、
一人ひとりの国民を豊かにしたほうが効果的であり、最もスピーディだ。
その結果、国民は幸福になり、国家を富ませるサイクルが完結する。

『諸国民の富』に説得力があるのは、スミスが人間をよく知っているからだ。
経済学に興味がない人でも、驚かされる警句がちりばめられている。
経済学の視点がなぜ重要なのか、いつの間にか納得させられている。

誰でも一度は向かい合うべき古典である。

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2011年7月28日 (木)

『コモン・センス』(トーマス・ペイン)

日本語に直訳すれば「常識」と題されるこの書物は、
アメリカに250万人しか暮らしていなかった18世紀後半、
50万部を超える大ベストセラーになった。

何と国民の5人に1人が読んだ計算になり、
独立戦争へのモチベーションを強く刺激した。

著者のトーマス・ペインは、1737年にイギリスで生まれたが、
仕事もうまくいかず結婚にも2度失敗し、
恵まれた人生を送ってきたわけではなかった。

ところが37歳のときにB・フランクリンと出会い、
その後の運命が大きく揺り動かされる。

フランクリンの勧めでフィラデルフィアに移り、
「ペンシルヴェニア・マガジン」の編集に携わることで、
彼は急激な時代の変化に真正面から向かい合わざるを得なかった。

当時のアメリカはイギリスの植民地で、
ボストン茶会事件に象徴される本国との対立が激化していた。

ペインは時代の流れを敏感に嗅ぎ分け、アメリカの独立を予感し確信した。
その思いを誌面に刻み込み、やがてまとめられたのが『コモン・センス』である。
独立の必然性を訴えたその内容は、大衆とりわけ最前線で戦う兵士たちを鼓舞した。

『独立宣言』を起草したジェファーソンにも影響を及ぼしたというのだから、
ペインの主張がアメリカ国民の総意となったのも頷ける。
独立戦争で民兵隊に志願したペインは、
その従軍経験を『アメリカの危機』として著し、国内で不動の地歩を築いた。

ところが彼はそれだけで飽きたらず、
フランス革命前夜に『人間の権利』を刊行し、フランス革命を擁護した。
しかし革命後の反革命とナポレオンの台頭により、
ペインは失意の中で帰国せざるを得ず、1809年に72歳の人生を閉じた。

「安全こそが政府の真の意図であり目的でもあるので、
最もよく安全を確保し、最小の費用で最大の幸福をもたらしてくれる政府が、
国民にとって何より必要である」

ペインが説く小さな政府の必要性が、
今では大国アメリカを鋭く切り裂くメスになっているのも、
皮肉な時代の流れに思えてならない。

「今や独立がよいかどうかを議論すべきではなく、
しっかりと安全な、しかも名誉ある基盤のうえにそれを達成することを切望し、
むしろその事業に着手していないことを心配すべきだ」

すべてのアジテーションは感覚に訴え、読む人の思考力を奪い行動へ追い詰める。
ペインの筆致は攻撃的であり、冷静で客観的な検証を許さない。

歴史的遺産として位置付けられる『コモン・センス』だが、
それがベストセラーに押し上げられるプロセスは、
今も昔も変わらない大衆の力強さに支えられていた。

どのような意見が多くの人の賛意を得られるのか、私たちに示唆するところは大きい。

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2011年7月27日 (水)

『ユートピア』(トマス・モア)

ユートピア」は理想郷であり、果てしない夢だが、
人それぞれにユートピアは違うから、そこに争いも生まれてくる。

モアの『ユートピア』も、諸手を挙げて絶賛する人と、
興味を示さない人に分かれるのは仕方ない。
どちらにしても問題提起を受けたことは間違いない。

モアが生まれたのは1478年、イギリスの首都ロンドンである。
祖父も父も法律家で、
モアもオックスフォード大学を卒業し、法律家の道を歩み始めた。

21歳のときに出会ったエラスムスは、
そのときに風刺文学として有名な『痴愚神礼賛』を書き上げたのだが、
生涯にわたってモアに強い影響を及ぼした。
とりわけ聖職者に対するモアのシニカルな視座は、9歳年長の友人の影響である。

32歳でロンドンの法律顧問になったモアは、
国王ヘンリ8世の相談役を務め、大法官の重責を担うことになる。

『ユートピア』が刊行されたのは1515年だから、
モアは向かうところ敵なしの時代である。
順風満帆のモアに、挫折が忍び寄るとは想像もできなかった。

ヘンリ8世の離婚問題が契機となり、国王とローマ教皇が対立するようになり、
カソリックの熱心な信者であったモアは、信仰よりも国王への忠誠を選ぶように迫られた。
首をタテに振らなかったモアはロンドン塔に幽閉され、ギロチンで処刑される。
1535年の夏である。

『ユートピア』の中で、モアは宗教についてこう記している。

「誰でも自分の好きな宗教を信奉することも、
他人を自分の宗教に改宗させようと努力することも合法的だが、
その際にあくまで平和的で冷静な態度をもってすることが必要であって、
いやしくも他の宗教をみだりに非難攻撃することは許されない」

モアが基本に据えるのは個人の自立であり、権力からの支配を極力排除しようとする。

「あらゆるものの平等が確立されたら、それこそ一般大衆が幸福になる唯一の道が開かれる」
「我々は戦争についてよりも、もっと多く、千倍も多く、平和について考慮を払うべきだ」

モアが描く理想郷は近代社会に先駆けて、自由と平等と博愛の精神を説く。

「すべての物資が豊富にあって、しかも誰も必要以上に貪る心配はないから、
欲しいものを欲しいだけ渡して何の不都合もない」
「そこには酒場も女郎屋もない。悪徳に耽る機会もなければ、
いかがわしい潜伏場所もない。陰謀と不法集会の隠れ家もない」

モアの『ユートピア』は清らかであり、後世に語り継がれ、
多くの思想家や革命家が実践しようと試みた。
しかし現実の人間たちは邪であり、欲望の誘惑から逃げられない。

モアの『ユートピア』を乗り越えたとき、私たちは新しい時代を迎えられる。

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2011年7月26日 (火)

『死に至る病』(キルケゴール)

キルケゴールは1813年に、デンマークのコペンハーゲンに生まれた。

父は一代で富を築いた毛織物商で、
母が45歳のときに7人兄弟の末っ子として生まれている。
17歳でコペンハーゲン大学に入学し、神学と哲学を学び、41年に学位を得ている。

24歳のとき、すでに婚約者がいた10歳年下の女性と出会い、
彼女の心を捕らえて婚約に至るのだが、
内面の罪悪感との葛藤で翌年に婚約を破棄し、その後は生涯独身を貫いている。

このときの「単身者」としての自己規定が、キルケゴールの思想の土壌を形づくる。

自然を精神の表象として理解したシェリングの講義、モーツアルトのオペラ、
ゲーテの劇作などに影響を受けながら、
30歳で『あれか、これか』を発表し論壇にデビューする。

『不安の概念』『反復』『哲学の断片』など次々と著したが、
同時に著作活動の虚しさを感じる。

キルケゴールは田舎に引っ込み、牧師として世を送りたいと願ったが、
今までの著作に対する批判が展開され、
それに応えるために筆を折るわけにはいかなかった。

世俗にまみれたキリスト教を攻撃し、
独自な神との関わりを求めるプロセスで『死に至る病』は生み出された。

1855年、コペンハーゲンの路上で倒れたキルケゴールは、
そのまま帰らぬ人となった。
まだ42歳の若さだったが、内面に閉ざされた単独者の人生としては充分だった。

キルケゴールの思想は、
ドストエフスキーやカフカらの実存的な文学作品に受け継がれている。

『死に至る病』とは、絶望のことである。

『ヨハネの福音書』の中で、
キリストが死に至らない病として希望を暗示していたのに対し、
反語的に用いられている。
キリスト教文化圏では、すぐに理解されるアイロニーである。

「自分とは、自分自身に関係するところの総体であり、
自分自身になろうとする必然的な可能性」であり、
「自分が自分であることは、人間に許された最大のことであり、
永遠が人間に対して要求すること」である。

キルケゴールは、そのような前提で人間を位置付ける。

しかし自分という存在は、どんなに安全で平和と思い込んでいても、
実は不安定な要素に満ちている。

だから人が漠然とした不安を抱くのは当たり前であり、
それだけに外的環境に惑わされずに自己を確立することが重要と、
キルケゴールの論理は展開されていく。

「自分自身を失うという一番危険なことが、
世間ではまるで何でもないかのように、極めて静かに行われていく」
「自分自身であろうなどとは大それたことで、
他人と同じであるほうがずっと楽で安全だという気持ちになる」

「自分の弱さを強調することが、実に傲慢に他ならないことに人は気づこうとしない」
「人は困難な状況が続いている間は、自分自身であろうと欲しない」

キルケゴールの鋭い指摘は、今の時代でも少しも色褪せていない。

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2011年7月25日 (月)

『孤独な散歩者の夢想』(ルソー)

フランス革命の思想的基盤を築いたJ・J・ルソーは、
1712年にフランス系スイス人の時計職人を父として生まれ、
母はルソーを産み落とすと同時に亡くなっている。
家庭的にはあまり恵まれなかったようで、16歳で出奔してから漂白の日々を重ねる。

ルソーが注目されたのは38歳のときに『学問芸術論』が、
アカデミーの懸賞論文に入選してからである。

ディドロらが中心になって推し進めていた『百科全書』でも、
ルソーが担当していたのは音楽についてである。
『むすんで開いて』の作者としてのほうが、当時は知られていたということになる。
実際に自然科学、教育、詩、音楽、演劇などに足跡を残している。

33歳のときから同棲し、13年後には結婚したT・ルバスールとの間に、
ルソーは5人の子どもをつくるのだが、すべてを孤児院へ送っている。
当時は珍しくない風習だったらしいが、
『エミール』の作者は、後年になって良心の呵責に苦しめられる。

『学問芸術論』の5年後に出された『人間不平等起源論』は、
百科全書派との訣別を明らかにすると共に、
人間の進歩そのものに根本的な懐疑の目を向けた。

ルソーは自らの生き方も問い直さざるを得ず、
隠棲生活の中で『新エロイーズ』『社会契約論』『エミール』などを執筆する。

とりわけ『社会契約論』は、人間の平等を基盤とした社会のひな形を描き、
フランス革命に大きな影響を及ぼすことになる。

そのような内容の書物の著者として、ルソーは政府から追われることになるが、
『告白録』などで改悛を訴えるものの芳しい反応は得られない。
失意のうちにフランス革命の前年の1778年に生涯を閉じる。

『孤独な散歩者の夢想』は、ルソーの絶筆である。
過去の幸福な日々を懐かしみ、現状を嘆いている。
痛ましいまでの印象を受ける。

「要するに、僕は地上でただの一人きりになってしまった。
もはや兄弟もなければ隣人もなく、友人もなければ社会もなく、ただ自分一個があるのみだ。
およそ人間の内で最も社交的であり、最も人なつこい男が、全員一致で仲間外れにされた」

「僕は同じ人間であったし、今でもそのつもりでいるのに、
その僕がいつの間にか人非人、毒殺者、暗殺者扱いされ、人類の嫌われ者となり、
賤民の玩弄物になろうとは、常識では考えられないではないか。
通行人が僕にする挨拶といえば唾を吐きかけることであり、
時代全体がよってたかって僕を生き埋めにしようなどとは、僕に想像できるものか」

ルソーは自らの言葉が誰に向けられ、誰を敵として誰を味方にしたのか無自覚だった。
言葉は知識の集積としての道具ではない。

そこに秘められた魂に思いが至れば、ルソーがなすべきは悔やむことでなく、
闘い抜くことだったような気がする。

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2011年7月24日 (日)

『手記』(ダ・ヴィンチ)

数年前にパリのルーブル美術館で見た「モナリザ」は、思っているより小品だったが、
圧倒的な存在感に吸い寄せられた。
この絵が「モナリザ」と知らない人でも、間違いなく立ち止まらせるほどの力がある。

同時代の画風と同じように、色彩も暗く沈んでいるのだが、
他の絵にない不思議な雰囲気が、周囲の世界を遮断して迫ってきたのを覚えている。

同じ旅行のときにイタリアで、
ダ・ヴィンチのもうひとつの代表作である「最後の晩餐」も見たが、
上手な絵であることを認めながらも、打ちのめされるほどの印象はなかった。

天才と呼ばれるレオナルド・ダ・ヴィンチが生まれたのは、
1452年のフィレンツェ郊外である。
私生児として生まれたダ・ヴィンチは、14歳からの6年間を徒弟として修行し、
画家組合の一員として認められた。華々しい青春時代を過ごしたわけではない。

30歳の頃に仕えたミラノ公の下で、彼の才能は一挙に開花した。
音楽家、都市計画者、軍事技師、水利工事監督、人体解剖研究者、光と影の研究者、
多彩な役割を充分にまっとうし、自らの能力を最大限に引き出している。
科学者であり、芸術家である土壌が耕された。

イタリア国内の政変に応じて、さまざまな主君に仕えたダ・ヴィンチが、
最後に行き着いたのがフランスであり、
アンボアーズ郊外のクルー城でフランソア一世に仕え、1519年5月に客死している。

ダ・ヴィンチの手記は約5千枚がイタリア・フランス・イギリスに現存しているが、
生涯に書き記した全体の1/3は消失したと伝えられている。

「科学を知らずに実践に囚われてしまう人は、
ちょうど舵も羅針盤もなしに船に乗り込む水先案内人のようなもので、
どこへ行くやら絶対に確かではない。
常に、実践は正しい理論の上に構築されねばならない」

「人間の天才はさまざまな発明をし、さまざまな道具で同じ目的を得たとはいえ、
それは自然よりも美しく容易かつ簡単な発明をすることは絶対にないであろう。
なぜなら、自然の発明の中には何一つ過不足がないからだ」

自然に対する畏敬と合理的な科学主義が、ダ・ヴィンチの信条であるが、
これは同時にヨーロッパの近代を支えた精神である。そこから次の言葉が導かれる。

「鉄が使わずに錆び、水が澱んで腐り、または寒中に凍るように、才能も用いねば損なわれる」

一方でダ・ヴィンチは、人生を辛らつに批評する。
貧困や悔恨、苦痛が、常にダ・ヴィンチを悩ましていたことが、手記の随所に垣間見られる。

泥臭く哀愁に満ちた一面があるからこそ、
ダ・ヴィンチの魅力は時間と空間を超えて迫ってくる。

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2011年7月23日 (土)

『君主論』(マキャベリ)

マキャベリは1469年に、イタリアのフィレンツェに生まれる。

ルネッサンスのイタリア半島は政治的激動期であり、
1494年にメディチ家を追放したフィレンツェは共和制に復帰し、
マキャベリは軍事と外交を担当する第2書記局長に就任する。

当時の同盟国であるフランスや神聖ローマ帝国へ足を運び、
『君主論』のモデルとされているチェーザレ・ポルジアとも親交を結ぶ。

フィレンツェの有力者ピエロ・ソデリーニの支持を得て、
傭兵に頼らない軍隊を組織したマキャベリは、
ピサの反乱を鎮圧することでその名声を確かなものにした。
しかし16世紀に入ると、再びメディチ家の勢力がフィレンツェを覆い尽くした。

共和制が崩壊した後に、反メディチ派の烙印を押されたマキャベリは、
失意の中で『君主論』や『ローマ史論』、喜劇『マンドラゴラ』を著す。
その一方でメディチ家への接近を図り、文筆家として認められ、
『フィレンツェ史』の執筆を依頼されるまでになる。

ところが神聖ローマ帝国を支配するハプスブルク家が領土を拡大し、
イタリア全土が飲み込まれるような事態を迎える中で、
フィレンツェはメディチ家に反乱する新生共和国が生まれる。

マキャベリは今度はメディチ派として、新政権から敵視され、
その1ヶ月後に生涯を閉じた。

常に政権の中枢に絡みながらも、
時代状況に翻弄されたマキャベリは、
権謀術数を画した策士として伝えられている。

しかし今の私たちが『君主論』を読む限りでは、
マキャベリは祖国フィレンツェを存続させるために、
現実的な解決策を提示した愛国者とわかる。

「人は些細な侮辱に対しては復讐しようとするが、大きな侮辱に対しては復讐し得ない」
「人に危害を加えるときは、復讐の恐れがないように(徹底的に)行わねばならない」

『君主論』は、ズバリ問題の本質に切り込む。人間に対しても、きれい事で捉えない。

「恩知らずで、むら気で、偽善者で、厚かましく、身の危険は避けようとし、物欲に目がない」
「恐怖心からも憎しみからも危害を加える」
「父親が殺されたのはじきに忘れても、自分の財産の損失はなかなか忘れない」

そればかりではないと思いながら、否定できない一面を鋭く衝いている。
こうした人間観から導かれる君主の理想像も、現実的かつシニカルである。

「いろいろな善い気質を何もかも備えている必要はない。
しかし、備えているように思わせることは必要である。
いや大胆にこう言っておこう。立派な気質を備えていて常に尊重しているのは有害であり、
備えているように思わせることこそが有益である」

「できれば善いことから離れずに、必要やむを得ぬときには悪に踏み込んでいくことが肝要」

一つひとつの言葉が、人間の真実を抉っている。

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2011年7月22日 (金)

『人生の短さについて』(セネカ)

セネカは紀元前4年頃、
修辞学者として知られる父の二男として、スペインのコルトバに生まれる。
幼い頃にローマで哲学と修辞学を学び、財務官から元老議員へと栄達したが、
その才能を皇帝カリギュラに嫉妬され、死刑に処される運命を辛うじて免れた。

その後もクラディウス帝の時代に、
皇后メッサリーナの策略によって、8年の間コルシカ島に流される。
後に皇帝に即位するネロの母、アグリッピナに呼び戻され、ネロの教育係を任された。
即位後も執政官として皇帝を補佐したが、意見を採用されなくなり引退する。

文筆生活に入ったセネカは、65年にビソの陰謀に加担したとして、
自ら死を選ぶように命じられる。
ローマ帝国の華やかな時代に、権力の中枢に位置しながら、
豊かな才能と見識の故に疎まれて、最期には自らの手で命を絶たねばならなかった。

セネカは、ストア学派を代表する哲学者として知られるが、
これは紀元前3世紀頃にキプロス島に生まれたゼノンから始まる流れで、
人間生活の一切を正しく処する実践的な知恵を重んじる。

自然に従って生きながら、情念に流されない人を賢者とするから、
自己拡大願望の強い皇帝たちにすれば、セネカは煙たい存在であったに違いない。

『人生の短さ』の中でセネカは、
「白髪や皺があるから長く生きたとは言えない。彼らはただ長く在ったのに過ぎない」
「彼らは長い間航海した者ではない、長い間打ち流された者である」と語る。
生きることは全生命をかけて、学ばなければならないことである。

飽食と遊興に明け暮れる貴族に、
「夜を期待することによって昼を失い、夜明けを気遣うことによって夜を失う」
「輿に乗っているか否かわからねば、自分が生きているか否か、もちろんわかるはずがない」
と容赦ない。享楽的に生きる人をセネカは認めない。

セネカにとって理想の人生は、
「我々より優れた人々と共有できる過去の世界に全精神を以て没入」するものであり、
「一日が決心した通りに過ぎた日が幾日あったか、
いつ自分自身を自由に駆使するときがあったか、
自分本来の顔をどれだけ保っていたか」を問い返し、
「全生命をかけて死ぬことを学ぶ」プロセスである。これはこれで、かなり窮屈だ。

今の私たちがセネカの言葉を受けとめるなら、
流されずに生きることなく、自らの意志を持てということだろう。
世の中が豊かになり潤うほど、私たちは思考停止の状態へ陥っていく。
さまざまな現象に観客として立ち会っても、当事者として自らを省みようとしない。

「人生は繁忙のなかに推し進められていき、
心の平静は決して得られることなく、常にただ念願される」
この言葉の持つ意味の重さは、私たちの胸にズシリと響く。

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2011年7月21日 (木)

『ソクラテスの弁明』(プラトン)

哲学という言葉にたじろぐ人でも、ソクラテスの名くらいは知っている。

しかしソクラテスは1冊の著作も遺していない。
直系の弟子と自負するプラトンが、ソクラテスが何を語ったのかを伝え、
問答法と呼ばれる真理へのプロセスを明らかにしている。

プラトンは紀元前427年に、アテネの名門に生まれている。
ソクラテスの処刑を契機に政界から離れ、アテネの近郊アカデミアに学園を開き、
ソクラテスの哲学を継承発展させたプラトン哲学を確立し、80年の人生をまっとうしている。

ソクラテスが青少年を腐敗させる人物として、
メレトスらアテネ市民の代表者3人から告発されたのは、紀元前399年のことである。
当時のアテネは全盛期の勢いはなく、スパルタの後塵を拝していた。

穏やかで保守的な空気が支配する中で、ソクラテスが真理を追究し対話を繰り返す姿は、
秩序を乱し権威を冒涜するものとして受けとめられた。

告発者の狙いは、ソクラテスを黙らせることである。
ソクラテスは名声は高くとも貧しい身であったから、
アテネを支配する者たちに屈すれば、命までは奪われなかったに違いない。

しかしソクラテスは毅然として信念を貫き、法廷の場で自らの哲学を主張した。

「私は、少なくとも自ら知らないことを知っていると思わないから、
(知らないことを知っているとする人たちより)
智恵のうえで少しばかり優っているように思われる」

「私に対する敵意がたくさんの人たちの間に起こっている真実は確かなことであり、
私が滅ぼされるようなことがあれば、私を滅ぼすものはこの敵意である」

「人はどんな立場にあっても、自らが最良と信じたものであれ、
指導者から位置付けられたものであれ、その立場は危険を冒しても固守すべきである。
逃げ出してしまう恥辱に比べたら、死ぬことさえ念頭に置いてはならない」

「たとえ幾度死の運命に脅かされても、私は決して行動を変えない」

メレトスらは、ソクラテスとの論戦に敗れ、法の正義を楯に断罪するしかなかった。
極刑を命じることで、アテネからの追放を受け入れたり、
級友の手引きで牢獄から脱出したり、命乞いする余地を残したのだが、
ソクラテスはそれらのすべてを悉くはねつけた。

ソクラテスにすれば現実との妥協は、哲学者としての致命傷に繋がる。
今まで築き上げた人生を否定して、長生きしたところで何ものも得られない。
自ら毒杯を仰いで命を絶つことが、永遠の命を手に入れる唯一の選択とわかっていた。

「もう来るべき時が来た。私は死ぬために、諸君は生き長らえるために。
もっとも我らのうち何れがいっそう良き運命に出逢うか。
それは神より他に誰も知る者はいない」

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2011年7月20日 (水)

『創世記』(旧約聖書)

『創世記』の成立は、紀元前10世紀から紀元前5世紀の500年間をかけて、
パレスチナを中心としたユダヤ民族によってまとめられていったものとされている。

仏教最古の古典『ベーダ聖典』の成立が紀元前2世紀頃、
イスラム教の聖典『コーラン』の成立が7世紀頃だから、
『創世記』の成立の早さがよくわかる。

天地創造から始まり、エデンの園を追われたアダムとイブ、弟アベルを手にかけたカイン、
大地を覆い尽くす洪水から逃れたノアの箱船、人と人が交わす言葉を奪われたバベルの塔、
神の怒りに触れて滅ぼされたソドム……、一つひとつの物語が淡々と綴られていく。

人は神に似せられて創られ、神になることを許されない存在である。
知恵の実を口にすることで楽園を追われ、神になろうとする試みは悉く潰される。
『創世記』の人間観は、基本的に否定的なものである。
それを集約させたのが「原罪」という概念だ。

創造主である神と人の闘いは、
人が神を超えられない存在と認め、神を崇め祀る契約を結ぶしかない。
テラの子アブラムは神からさまざまな試練を受け、
多くの国民の父を意味するアブラハムと名付けられ、神からこう告げられる。

「君たちすべての男は、みな割礼を受けるべきである。
君たちは、その陽の肉を切るべきである。これが私と君たちの間の契約の証になる。
(中略)私の契約は君たちの肉に印されて、永遠の契約となる」

99歳のアブラハムは90歳の正妻サラとの間に長子イサクを生み、
イサクの系譜が大地に満ちていくことになる。
神との契約は人の存在の限界を設定すると共に、人の世界の中での正統性を裏付ける。
神と契約を結ばない異民族は、滅ぼされるべき運命にある。

『創世記』の描く世界は、灼熱の太陽と乾いた大地に象徴され、人と人は常に争う。
奪わねば生き延びられない状況で、人は掟を守るために神を必要とした。
絶対的存在から否定されないために、論理に基づく契約を尊重せざるを得なかった。
ここに西洋の原風景がある。

仏教を中心とした融和的な発想の中で育った私たちは、
しばしば欧米人の対立的なものの見方考え方に惑わされるが、
論理を積み重ねてその背景を理解すれば真意は伝わる。

神との契約を背景に発展したのが欧米の文化である。
『創世記』にはそれを読み解くヒントが秘められている。

宗教に興味を持たずとも、欧米の文化や思想に近づこうとするなら、
『創世記』を手がかりとして、『旧約聖書』『新約聖書』は必読である。

欧米人の意識の原型がどのように形づくられていったのか、
それがわからなければコミュニケーションは成り立たない。

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2011年7月19日 (火)

『風土』(和辻哲郎)

和辻哲郎は、1889年に兵庫県神崎郡に生まれた。

同郷の柳田国男より一回り年下である。
17歳で姫路中学校を卒業し、第一高等学校に首席で入学する。
先輩に勧められ哲学を志望した和辻だが、夏目漱石の影響を強く受ける文学青年でもあった。

学生時代に谷崎潤一郎らと共に、小山内薫が編集する第二次「新思潮」の同人になり、
卒業後に『ニイチェ研究』で論壇の地歩を築く。
和辻の仕事が、常に叙情性と切り離せないのは、論理と叙情の何れもが本質だからである。

ニーチェからキルケゴールの系譜を追うことで、
日本での実存主義哲学の第一人者となった和辻だが、
29歳のとき祖先の暮らしを見つめ直そうとする動機から、
大和の古寺を巡訪する日々を重ね、『古寺巡礼』の名著として結晶化させた。

『日本古代文化』『日本精神史研究』『日本倫理思想史』と連なる日本文化の研究は、
仏教思想を軸として日本人の芸術観、宗教観を掘り下げることで、
日本人の固有性を明らかにした金字塔である。
西洋と東洋が、和辻の内部でひとつに統合されていく。

近代的知識人の典型として、和辻は戦前戦後を貫き、日本の文化財保護活動に尽力した。
戦後の49年に東京大学を退官してからも、
終生文化の守り手として貢献し、1960年師走に心筋梗塞で他界する。
71年の生涯は、日本文化への視座を確立するために捧げられた。

1935年に刊行された『風土』は、こうした和辻の特質を余すところなく伝える名著。

「我々はすべて、いずれかの土地に住んでいる。
したがってその土地の自然環境が、我々の欲すると否とに関わらず、我々を取り巻いている。
この事実は常識的に極めて確実である」

自然風土から人間を考察する問題意識が、すでに鮮明に打ち出されているだけでなく、
この後の展開で和辻の視野が世界に向けられていることに驚かされる。

和辻は風土をモンスーン、砂漠、牧場と、大胆に三分割する。
モンスーンの特徴は湿潤であり、さまざまな生命が溢れている。
これに対して砂漠は乾燥した死の世界であり、対立的、戦闘的な関係を招く土壌を含む。
牧場は人間生活の内部に自然を包み込み、穏やかで従順だが苦悶を与える要素を孕む。
和辻の筆力は非合理を合理へ転換させる。

和辻によれば中国人が感情を表さないのは、悠久なる揚子江や黄河が影響を及ぼし、
時間軸が静かにゆっくりと流れているからだ。
その間に近代的な工場群が生まれることで、中国人は強く主張することを覚えたのだろうか。
想像力を働かせると、さらにおもしろい。

「甚だしく活発であり敏感であり」「疲れやすく持久性を持たない」日本人のひとりとして、
『風土』は自らのアイデンティティを掘り下げるツールである。

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2011年7月18日 (月)

『貧乏物語』(河上肇)

河上肇は、1879年に山口県の岩国市で生まれた。

東京帝国大学の学生のときに内村鑑三や木下尚江らの講演を聞いて感動し、
足尾鉱毒問題の講演と募金活動に接した際に、着ていた羽織とコートを脱いで寄付し、
下宿に戻って行李一杯の私物を送り届けた逸話が残っている。

毎日新聞に「奇特の士」として採り上げられたが、河上肇の人生を象徴するエピソード。
河上は常に人間の善意を信じ、自らの行動に対する批判に誠実に応え、
マルクス主義への傾倒を深めていく。河上は獄中生活を経験している。

1916年に大阪朝日新聞に連載された『貧乏物語』は、
知識人層を中心にセンセーショナルな注目を集めたが、
現実認識が甘いとの批判も強く河上を苦しめた。

個人雑誌『社会問題研究』を中心に新たな著作活動を展開しながら、
今までの著作を次々に絶版にしていく。

1929年に大山郁夫らと新労農党を結成したが除名処分を受け、
3年後に日本共産党に入党し『赤旗』の編集に関わる。
当時の日本共産党は非合法政党であり、河上は1933年に治安維持法違反で逮捕され、
転向を拒んだために5年間の懲役に服せねばならなかった。

出獄後は『自叙伝』を執筆する他は、政治活動や著作活動からの引退を余儀なくされ、
第二次世界大戦での敗戦によって再び脚光を浴びたときには、
すでに河上の命の灯火は消えかかっていた。
敗戦の翌年に肺炎を併発し、河上肇は帰らぬ人となっている。

『貧乏物語』は、
「肉体と知能と霊魂と、これら三のものを伸びるところまで伸ばさしていくため、
必要なだけの物資を得ていない者があれば、それらの者はすべてこれを貧乏人と称すべき」
と始まる。
人はパンのみで生きるのではないが、パンがなければ生きられない。

「煙草を用い酒を飲みなどすれば無論のこと、新聞を購読しても、郵便ひとつ出しても、
そのたびごとに肉体の健康を犠牲にしなければならないのが貧乏人であり、
いくら働いても貧乏は免れぬぞという[絶望的な貧乏人]なのである」

河上はこの問題を解決するのは、富裕階級のモラルに求めることと考えた。
「人間生活における一切の経営は、究極その道徳的生活の向上をおいて他に目的はない」
とするのが河上の結論だから、なるほど戦前の社会状況を踏まえれば甘いと言えば甘い。

しかし河上が説いている内容は、経済が発展した今だからこそ、私たちの胸に鋭く迫る。
私たちは何のために働き、企業の経営活動はどこで支持されているのか、
利潤追求を金科玉条のものとしている限り、日本全体を覆い尽くす喪失感は満たされない。
マルクス主義者になる以前の河上の言葉だからこそ、私たちに近しく語りかけてくる。

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2011年7月17日 (日)

『明治大正史 世相篇』(柳田国男)

日本民俗学の創始者として知られる柳田国男は、
1875年に兵庫県神崎郡に生まれている。

父は儒学者、兄弟たちは医者、歌人、言語学者、日本画家として成功しているから、
文化的な環境の中で生まれ育ったとわかる。12歳で上京し、森鴎外宅に出入りしていた。

東京帝国大学を卒業後、農商務省農政課へ進んだのが、柳田が民俗学へ傾く契機になった。
農商務省長官の秘書として宮崎県椎葉村を訪れ、山里に暮らす人々との触れ合いの中で、
伝統的な狩猟の実態を聞き書きしたのが『後狩詞記』である。

1910年に刊行された『遠野物語』は、最も知られている柳田の著作である。
土地の古老が語る昔話は、幻想的で哀愁を帯びている。
河童伝説に象徴される自然と人の交わりは、
普遍的な日本の農村の生活スタイルを表現し、読む人の心を懐かしさに誘う。

官僚と学者の二足の草鞋を上手に履きこなしながら、
柳田はそれぞれの道を順風満帆に歩んできたが、
19年には官を辞し、翌年には朝日新聞客員に迎えられ、精力的に著作活動を展開する。

『明治大正史 世相篇』『海南小記』『都市と農村』などが刊行され、
柳田の仕事が民俗学の方向へ絞り込まれ、国際的な評価もしだいに高まる。

33年には民俗学の研究を目的とした木曜会を組織し、戦後に民俗学研究所へ受け継がれる。
35年に発足した民間伝承の会は、戦後に日本民俗学会と改称されている。
柳田の足跡に沿って、日本の民俗学が形づくられてきたと理解できる。

1930年に執筆された『明治大正史 世相篇』は、柳田が民俗学を見据えた56歳に、
「現代生活の横断面、すなわち毎日の我々の眼前に出ては消える事実のみによって、
立派に歴史は書ける」という信念を形にしたものである。
新聞記事の中に、明治大正の60年を捉える。

おもなテーマは衣食住であり、都市と地方に働く人々である。
村々の庭先に花々が植えられる風景から、柳田は農村の平和と発展を鋭く嗅ぎ分け、
「花を自在に庭の内に植えても良いと考えた人の心の変化」に、
平凡な庶民が何を一番大切にしているかを見抜く。

「町に寂しい日を暮らす人たちに、何の断りもなく田舎は進んだ。
それが東京化ではなかったものの、少なくとも心の故郷は荒れたのである。
それを知らずに、帰去来の辞は口ずさまれたのである」と、心象風景を描く。

日本がしだいに軍国主義へ傾斜して、アジアへの侵略を着実に進めていく中で、
庶民は当たり前の日常生活を暮らしている。
私たちの身体の芯には、間違いなく日本人の血が流れている。

そうした事実が、淡々とした文章で伝えられ、
私たちは自らのアイデンティティを考えざるを得ない。

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2011年7月16日 (土)

『論語と算盤』(渋沢栄一)

日本資本主義の父と称された渋沢栄一は、
1840年に、埼玉県本庄市郊外の血洗島で生まれた。

父は苗字帯刀を許された富農だったが、
理不尽な御用金の調達を申し付ける代官に、口答えひとつ許されないのが農民の立場である。
幕末の嵐が吹き荒ぶ時代背景で、渋沢は父の名代で接した小役人の態度に憤慨し、
武士として身を立てねばならないと決意する。

渋沢は倒幕の志士として高崎城乗っ取りや横浜焼き討ちを計画するが、
何れも挫折した後に、ふとした縁で一橋慶喜に仕える。
慶喜が最後の将軍としての運命をたどるのに、渋沢は影のように付き従い、
幕臣として明治維新を迎えることになる。

スタートしたばかりの明治政府は人材に飢え、渡欧経験のある渋沢にも白羽の矢が立ち、
税制や予算体制の基礎を確立し、国立銀行創立のための準備に奔走し、
第一国立銀行の総裁になったまでのプロセスは、今では多くの人が知っている。

その後も王子製紙や日本郵船など500社以上の創業に関わりながら、
それらを渋沢財閥として組織することもなく、生涯を閉じた。

『論語と算盤』は、渋沢の精神的バックボーンを明らかにした書として重要である。

「与えられた仕事に不平を鳴らして往ってしまう人はもちろん駄目だが、
つまらぬ仕事と軽蔑して力を入れぬ人もまた駄目だ。
およそどんな些細な仕事でも、それは大きな仕事の一部分で、
これが満足にできなければ、ついに結末がつかぬことになる」

渋沢がたくさんの企業と関わりながら、一つひとつを大切にしていたことがよくわかる。
日本経済全体を視野に入れ、それぞれの重要性を認識していた渋沢に、
万に一つも手抜かりはない。

「常に周囲に敵があってこれに苦しめられ、
その敵と争って必ず勝ってみましょうの気がなくては、
決して発達進歩するものではない」

「私の信ずるところを動かし、これを覆そうとする者が現れれば、
私は断固としてその人と争うを辞せぬ」

渋沢にこの激しさがなければ、人は付いていかなかった。
渋沢は晩年に社会福祉事業に大きな貢献をしているが、
自分の身を捨て世の中の役に立とうとする精神は、生涯変わらず貫かれていた。
私利私欲のない渋沢だから、言葉の一つひとつがさわやかである。

「有要な場合に有要な言を吐くのは、できるだけ意思の通じるように言語を用いなければ、
せっかくのことも有耶無耶中に葬らねばならない。
禍のほうばかり見ては消極的になりすぎる。
極端に解釈すれば、ものを言うことができないようになる。
それではあまりに範囲が狭すぎる」

けだし名言である。

渋沢は乗り越えるにはあまりに高い峰だが、
そこを目指さなければ日本を再生させる真意に至らない。

この人物の重さに、私たちは気づくべきである。

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2011年7月15日 (金)

『日本文化史研究』(内藤湖南)

内藤湖南は1866年に、秋田県鹿角で生まれている。
5歳で『四書』や「二十四孝』を素読し、12歳で頼山陽の『日本外史』を読んだという。
繰り返し音読することで記憶に刷り込まれ、湖南の発想のベースを形づくったに違いない。

17歳で秋田師範学校に入学し、卒業後は一時教師を務めたが、二年後には編集者になる。
書き手となった20代では『日本人』を主宰する三宅雪嶺に近く、
30代になると幸徳秋水や境利彦を擁する『萬朝報』に論説委員として招かれる。

今の私たちの分類に従えば、国家主義者と社会主義者の間を行き来しているように見えるが、
『萬朝報』を主宰した黒岩涙香に代表されるように、当時は思想の境界線があいまいで、
お互いの主張の重なる部分も多かった。湖南は中国通のジャーナリストとしての地歩を築く。
湖南と同郷の狩野亨吉に京都帝国大学へ招かれた二年後に教授となり、
その翌年には文学博士となって、湖南はいつの間にか学者となり、
東洋史の碩学と称えられるまでになる。
しかし『日本文化史研究』を読むと、湖南の本質は学者ではなく評論家である。

「日本には文化の種ができあがっていたのでなく、文化になるべき成分があったところへ、
他の国の力によってだんだん寄せられ、ついに日本文化という一つの形を成したのでは」

「今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、
古代史の研究をする必要はほとんどありません。
応仁の乱以後の歴史を知っていれば、それでたくさんです。

それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感じられませんが、
応仁の乱以後は我々の真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、
これを本当に知っていれば、それで日本歴史は充分だと言って良い」

着眼点はおもしろいが、学問として捉えるなら大胆と言うより乱暴である。
守護大名から戦国大名に切り替わる応仁の乱で線を引くのは、
講談の影響を受けたかと怪しむほど湖南の直感だけが根拠になっている。
合理的と評価する人もいるが、論理は根本的に破綻しているように読める。

それでも「歴史というものは、いつでも下級人民がだんだん向上発達していく記録」と、
本質的なところを見据えているから、評論として読む限りは一面の真実を描いている。
それだけに一方では、さまざまな論法に利用される危険性も孕んでいる。

事実という素材をどのように切り取って、自らの主張へ転換させていくのか。
論理ゲームのテキストとして『日本文化史研究』は興味深い。
これを下敷きに史論を発展させた学者がいることを思えば、
歴史認識を共有するのはそれほど簡単でないと想像できる。

『日本文化史研究』を読み終えたら、湖南に対する評価はひとまず置いておき、
自らの思考回路がスムーズに流れているか、冷静に客観的に問い直したい。

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2011年7月14日 (木)

『日本風景論』(志賀重昴)

日本は風光明媚な国であり、
天橋立や厳島、松島の日本三景に代表されるように、その美しさを讃えた文人墨客は数多い。
しかし1894年に志賀が刊行した『日本風景論』では、
気候、海洋、地形などを実地に観測し、比較に基づく地理学として日本の風景を位置付ける。

志賀は1863年に愛知県岡崎市に生まれ、父は没落した士族で幼い頃に他界している。
上京して15歳で東京帝国大学予備門に合格したが、
経済的な理由もあり17歳で札幌農学校に進んでいる。
卒業後は教師を務めた後、今も書店と出版社として繁盛する丸善に就職する。

志賀が論壇にデビューしたのは、太平洋諸国の見聞記である『南洋事情』だが、
これを契機に三宅雪嶺と出会う。

三宅は志賀より三歳年下で、東京帝国大学文学部哲学科を卒業し、
東京大学編纂所で『日本仏教史』を編集した後に、評論家として独立していた。

1888年に志賀と三宅は、杉浦重剛や井上円了らと政教社を設立し、
国粋主義を主張する雑誌『日本人』を刊行する。
当時は鹿鳴館に象徴される欧化政策が華やかな時代状況だったから、
志賀ら若い世代の反骨精神は、純粋なナショナリズムへ向かったに違いない。

三宅の女婿は中野正剛であり、杉浦や井上も含めて政治的オピニオンリーダーに成長し、
日本画回線に踏み切る世論を形成するのに一定の役割を果たしたが、
志賀は41歳のときに衆議院議員の総選挙に落選してから政界を離れ、
一介の地理学者として生涯を捧げている。

『日本風景論』は志賀が31歳、日清戦争のさなかに刊行されている。
1908年までに13版を重ねたのは、
読者である知識層に国家意識が高まったという背景もある。

フィールドワークを踏まえた手法が普遍性を持たせ、
今の私たちが読んでも納得できる客観性を保っていることは見逃せない。
四季折々の美しさの背景には、
寒温熱三帯の気候風土、親潮や黒潮の海流、風が影響を及ぼしている。

日本列島を貫く火山帯は豊富な温泉を湧き出させ、
複雑に入り組んだ海岸線は多様な光の乱舞を誘う。
幅が狭く高い山脈に貫かれた日本の地形は、
それぞれの地域にさまざまな環境をもたらし、独特の文化を育んでいる。

志賀が描いた世界を、私たちは今も受け継いでいる。

コンピュータが普及し、生活のスピードが加速する時代だからこそ、
私たちは疲れたときに自然に癒されたいと望む。
実際に出かけてみると、郷愁を誘う風景は次々と失われ、
都市と地方の距離は縮まっている。自然の中に人口の造形物が立ちはだかっている。

そんなときに『日本風景論』を開くと、見たこともない描写なのに懐かしさがこみあげる。
私たちが置き忘れた風景が、この本の中には息づいている。

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2011年7月13日 (水)

『蘇翁夢物語』(徳富蘇峰)

日本を代表するジャーナリストとして知られる徳富蘇峰は、
1863年に熊本県水俣市の豪農の家で生まれた。

結核に冒され夫の留守中に離縁される川島浪子をヒロインとして描いた『不如帰』は、
実弟の徳富蘆花が生み出した明治時代屈指のベストセラーである。

父の一敬も横井小楠の高弟で、幕末には肥後実学党の指導者となり、
明治には開明的思想家として活躍したから、
幼少期から政治と文化の環境の中で育まれ、ナショナリズムの色濃い思想を刷り込まれた。
蘇峰の土壌は終始一貫してフォークロアである。

父の勧めで熊本洋学校に進学した蘇峰は、
そこでキリスト教の盟約に参加し騒動を起こした。
結果として熊本洋学校は廃校に追い込まれ、居場所を失った蘇峰は上京し、
さらに京都へ移って同志社に入学する。

生涯の師と仰ぐ新島襄と出会えたが、
卒業を目の前にして学生運動に巻き込まれ同志社も退校させられる。
やむなく熊本へ戻り、19歳で大江義塾を開講する。

23歳のときに刊行した『将来の日本』が、論断で高い評価を得て蘇峰の運命を決定付ける。
1987年に民友社を設立し雑誌「国民の友」を創刊した3年後には、
ジャーナリストとしての地位を不動のものとする「国民新聞」を発行する。

「国民の友」は1万部を発行したが、当時の雑誌は1千部前後の発行部数が普通だったから、
蘇峰の掲げる国民主義がどれだけ知識人に支持されたか想像できる。
日清戦争後の三国干渉を契機に国権主義を強めた蘇峰は、
時代の波に後押しされ日本のオピニオンリーダーになる。

1942年に大日本言論報告会の会長に就任していることからも、
太平洋戦争下の国民意識に強い影響を及ぼした事実は覆せない。

戦後は公職追放の処分を受けるが、蘇峰の名声は揺るぐことなく、
1957年に94歳で大往生するまで言論界の重鎮と見なされていた。

『蘇翁夢物語』は交友録であると共に、蘇峰というフィルターを通した日本近代史である。
親交の深かった伊藤博文、山県有朋、井上馨を筆頭に、大隈重信や板垣退助にも触れ、
新島襄を語ることで、自らの青雲の志を確かめようとしている。

ジャーナリストらしく、それぞれの人物と一定の距離を保とうとしているが、
新島と蘇峰の生きるスタンスはあまりにも異なる。

蘇峰は常に時流の中枢から世界を捉え、
日本がたどる道を肯定的に認めたうえで、政局を担う主人公を好意的に描いている。

明治の時代を生きた人たちが共有した雰囲気を、
見事に描いている筆力は疑いもなく一級品である。

伝えたい内容を伝わるように伝えるには、
具体的でわかりやすい表現が必要と改めて痛感させられる。

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2011年7月12日 (火)

『善の研究』(西田幾多郎)

『善の研究』は、近代日本で最初の独創的な哲学書として知られ、
著者の西田幾多郎は京都大学で教鞭を執り、
後に京都学派と呼ばれる人文社会学者を多く輩出させている。

西田は一八七〇年に石川県の河北郡に生まれている。
浄土真宗の盛んな土地柄で、西田哲学に宗教的色彩が濃いのも、
幼児期からの風土的影響かもしれない。

金沢の第四高等学校では鈴木大拙と同級で、生涯にわたり親交を温めたという。
東京大学で井上哲次郎、ブッセやケーベルらに学んだ後には、
金沢の卯辰山洗心庵で雪門和尚に師事している。

西田は哲学の前提として、実在する自意識の直覚を挙げている。
デカルトが『方法序説』の中で述べている「われ思う、ゆえにわれ在り」と同じ出発点で、
自分を認識する観念から世界を捉えようとする発想だ。
自分が死んでしまったら、世界は消滅するに等しい。

デカルトが数学的な方法論を用いて客観的に世界へたどり着こうとしたのに対し、
西田は個人の主体的意識と個別な価値観から世界に近づこうとする。
それが普遍性を得るためには、誰もが認める価値観が求められる。

西田にとって「善」とは、
「実在の完全なる説明は、単にいかにして存在するかの説明するかではなく、
何のために存在するかを説明しなければならない」という問いに対する答である。

「知識においての真理は直ちに実践上の真理であり、
実践上の真理は直ちに知識においての真理でなければならない」という言葉も、
陽明学派が唱えた「知行合一」と通ずるものがあり、
西田の哲学が人生論に極めて近い性格を帯びているとよくわかる。

「意志の発展完成は直ちに自己の発展完成となるので、
善とは自己の発展完成ということができる。
すなわち我々の精神が諸々の能力を発展し、円満なる発達を遂げるのが最上の善」であり、
「まず個人性の実現をせねばならぬ。すなわちこれが最も直接的な善である」と、
『善の研究』では結んでいるが、これは明らかに主体の確立と自己実現の勧めである。

『善の研究』が刊行されたのは一九一一年であり、
西田が禅宗の影響を強く受けていることから、難しい言葉も多く用いられ、
古くさい印象を与えているが、実は私たちにとって親しみやすい内容である。
仏教からものの見方考え方を借りていても、宗教的結論へ導いていない。

一〇〇年近くも前の富国強兵が叫ばれていた時代に、
自分らしく生きることが人生の命題と西田は説いている。

その根幹に共感し、数多くの自由な発想が京都大学に根づいていった。
それがさまざまな分野に波及して、今の私たちの意識に強い影響を及ぼしている。

『善の研究』を難解な哲学書と決めつけず、柔らかな気持ちでページを開けば、
今も私たちに教えてくれることは少なくない。

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2011年7月11日 (月)

『武士道』(新渡戸稲造)

樋口一葉にその座を奪われたが、少し前までの5千円札の肖像に描かれ、
誰にでも知られる存在になったのが新渡戸稲造である。

南部藩士の三男として盛岡に生まれ、札幌農学校でキリスト教の洗礼を受け、
東京帝国大学を中退し私費でアメリカに渡り、後にドイツへ移った。

ドイツのハレ大学を卒業し、アメリカのジョンズ・ポキンス大学からも名誉学位を贈られ、
フィラデルフィアでエルキントン嬢と結婚した新渡戸は、
この頃から国際人としての素養を養っていた。一方で着々と農学者としての地歩を築いた。

アメリカで『日米交通史』を刊行した後に帰国した新渡戸は、
札幌農学校の教授に任じられ、『農業本論』の執筆に取り組む。
過労による神経衰弱で退官し、伊香保での療養生活を余儀なくされたが、
1899年に日本最初の農学博士になっている。

新渡戸は東京女子大学の初代学長を務めるなど教育者としても評価されたが、
1919年から7年間を国際連盟事務局次長として務め、
29年には太平洋問題調査会理事長に就任し、国際平和に貢献したことで知られている。
「太平洋の架け橋」になることが新渡戸の願いだった。

『武士道』は、新渡戸が温暖なカリフォルニアに渡り、専念して書き下ろされた著作である。
「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」
「それは今なおわれわれの間における力と美との活ける対象である」と語り始めたとき、
新渡戸は日本人の価値観を国際社会で正しく評価させたい情熱に溢れていた。

新渡戸は武士道のバックボーンを禅に求め、
「運命に託すという平静なる感覚、不可避に対する静かな服従、
危険災禍に直面してのストイックな沈着、生を賤しみ死を親しむ心、
仏教は武士道に対してこれらを寄与した」とまとめる。

「武士道が自己に吸収したる本質的な原理は少数かつ単純であった。
少数かつ単純ではあったが、
わが国民歴史上最も不安定な時代における最も不安な日々においてさえ、
安固たる処世訓を供給するには充分であった」と、
明治維新を精神的に支えたのが武士道と見抜く。

「武士道は、一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかもしれない。
しかし、その力は地上から滅びないであろう。
その武勇および文徳の教訓は、体系としては毀れるかもしれない。
しかし、その光明その栄光はこれらの廃墟を越えて長く活くるであろう」

こう結ばれると、私たち日本人の血流と向かい合わざるを得ない。

『武士道』が上質な日本文化論に仕上がっているのは、
新渡戸の心に誠実な合理精神が宿っていたからである。

もう一度読み返して、自らのアイデンティティを掘り起こしたい。

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2011年7月10日 (日)

『茶の本』(岡倉天心)

日本に茶が伝わったのは天平時代らしいが、
長らく貴族階級の貴重な飲み物として扱われていた。

鎌倉時代に栄西が抹茶を広め、『喫茶養生記』を著すなどしたが、
それでも禅僧や支配階級の社交の場でしか飲まれなかった。

私たちが日頃から愛飲する煎茶は、江戸時代に石川丈山や隠元らが普及に努め、
永谷三之丞宗円が改良するまで待たねばならない。

私たちに馴染み深い日本茶には、歴史と文化が深く宿っている。
とりわけ鎌倉時代から後には陶磁器だけでなく、
絵画から建築まで幅広い分野に大きな影響を及ぼしている。
茶を楽しむ心は日本の精神風土であり、忘れかけている郷愁である。

『茶の本』を著した岡倉天心は7歳からヘボン塾で英語を学び、
12歳で東京外国語学校に入学し、そのまま後に東京帝国大学になる開成学校へ進んだ。
ここで哲学教授フェノロサと出会うのだが、天心はわずか17歳で文学士となる英才だった。

1886年に渡欧し、
翌年に帰国して東京芸術大学の前身になる東京美術学校の開設に奔走し初代学長に就任。
国立博物館の前身になる帝室博物館の美術部長も兼任する。
日本画団に大きな影響力を持つフェノロサの後ろ盾があったにせよ、
20代の天心の活躍は目覚ましいものがあり、快く思わなかった画壇の重鎮も多かった。

案の定、フェノロサの帰国後に天心は排斥されるが、
橋本雅邦や門下の横山大観、下村観山らと日本美術院を創立する。
『東洋の理想』『日本の目ざめ』『茶の本』を英文で刊行し、
ボストン美術館東洋部長にも任じられ、美術家としての国際的評価を不動のものにした。

『茶の本』の中で天心は、「茶道の要義は、不完全なものを崇拝する」ことにあると説く。
「人生という不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとする優しい企て」
「象牙色の磁器に盛られた琥珀色の液体の中に、その道に心得のある人は孔子の快き沈黙、
老子の奇警、釈迦牟尼の天上の香にさえ触れることができる」と絶賛する。

天心にとって茶道とは「美を見いださんがために美を隠す術であり、
顕すことをはばかるようなものを仄めかす術」だから、
「主客協力してこの折りに、この浮世の姿から無情の幸福をつくりだす神聖な儀式」
にまで高められる。人生の瞬間を切り取る緊張した精神を大切にした。

私のような無粋な人間でも、茶室に通され抹茶を前に置かれると、
心が内面へ向かうのを体感する。
天心ほどの境地には至らないが、自分の奥底に脈々と日本人の血が流れているとわかる。

たまの休日には禅寺まで足を運び、深山幽谷の環境で心を落ち着かせ、
静かに抹茶を喫むのも良いものである。

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2011年7月 9日 (土)

『代表的日本人』(内村鑑三)

「少年よ、大志を抱け」

札幌農学校(現在の北海道大学)を創設したクラーク博士の言葉だが、
博士が在任したのは僅か一年間で、
二期生として入学した内村鑑三は、直接博士の指導を受けていない。

それでも博士の遺した「イエスを信ずる者の契約」に署名し、翌年には洗礼を受けた内村は、
やはりクラーク博士の薫陶を受けた弟子ということになる。新渡戸稲造とは同期である。

1981年に札幌農学校を卒業し、翌年から農務省水産課に勤めたが、
84年には渡米して知的障害児施設の看護人として働いた後に、
クラーク博士の母校でもあるアマースト大学に入学した。
シーリー総長の影響も受け、この時期に内村の土台が形づくられていった。

帰国後の内村を一躍有名にしたのが、第一高等中学校の教育勅語奉読式での不敬事件である。
内村は硬骨のキリスト者として知られ、いくつかの学校の教員を務めながら執筆活動を展開し、
97年には『萬朝報』の英文欄主筆として迎えられる。

キリスト教者の立場から社会、文明を批評し、
足尾銅山鉱毒事件では田中正造を支持し、非戦論を唱えて萬朝報を退社する。

内村鑑三の69年の生涯は、日本人としての自覚を強く持ちながら、
そのうえでキリスト者として善く生きるために、何をなすべきかという使命感で貫かれている。
幾度もカルチャーショックに襲われ、心理的葛藤に苦しみながら、
内村はついに内村の良心を裏切らなかった。

1894年に英文で発表された『代表的日本人』は、
日本人キリスト者としての内村の根底に関わる書物である。

西郷隆盛、上杉鷹山、中江藤樹、二宮尊徳、日蓮、
時代背景も活躍した分野も異なる五人を通して、
内村は日本人のアイデンティティを掘り起こし、国際社会の中で正統に位置付けようとする。
とりわけ日蓮は、内村にとって異教徒である。

内村が日蓮に共感したのは、あらゆる試練を覚悟して一途に心理を追い求める高潔さである。
西郷を描くにも、宮中の宴から退出するときに下駄がないので裸足で帰ろうとし、
門番に見咎められても釈明できず、岩倉具視が通りかかるまで雨中に忽然と佇んでいたと描く。
西郷の偉業を讃えるのではなく、朴訥で自然な人柄から日本人像を探る。

江戸時代中期の名君として高名な上杉鷹山も、実践的農層指導者として評価される二宮尊徳も、
近江聖人と称される中江藤樹も、業績を伝えるのではなく日本人の典型として紹介し、
謙虚で忍耐強く、目的へ向かって強い精神力を持ち、誰に対しても誠実なのが日本人と訴える。
そうした日本人だからこそ、敬虔なキリスト者になる。

内村にとって『代表的日本人』は、『余は如何にして基督教徒となりし乎』と並んで、
必然的に生み出された内的産物である。その意味するところは重く深い。

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2011年7月 8日 (金)

『三酔人経綸問答』(中江兆民)

日本のルソーと称された中江兆民は、1847年、幕末の土佐藩に生まれている。

倒幕の急先鋒の環境に置かれながら、
兆民は維新の志士にならず、フランス語を覚えて洋書を読み漁っていた。

それでも坂本龍馬や武市瑞山の神通力なのか、
大久保利通の尽力で司法省に出仕し、岩倉具視に随行してフランスへ渡った。
しかし官僚としての生活は長続きしなかった。

兆民の人生の転機になったのは、板垣退助らの自由民権運動である。
1881年に西園寺公望が創刊した『東洋自由新聞』の主筆になると、
兆民は水を得た魚のように民権思想普及と明治政府攻撃に活躍した。

政府の保安条例で東京を追われたが、その後に自由党員として衆議院議員に選出される。
自由党内の軋轢で議員を辞してからは、思い通りの人生を歩めなかった。

兆民の人脈は幅広く、弟子である幸徳秋水は『社会主義真髄』を著し、
明治天皇暗殺計画の首謀者として刑死する。

秋水の入社した『萬朝報』の社主、黒岩涙香や、キリスト教者、内村鑑三とも親交を結び、
普通選挙期成同盟会を結成した木下尚江とも近かった。

一方で東亜同文会や国民同盟会を組織し、大陸進出を唱えた近衛篤麿にも賛同している。
この流れには大陸浪人として有名な宮崎滔天や、国家社会主義者として一時代を築き、
2.26事件の黒幕として死刑を宣告された北一輝がいる。極左から極右まで兆民で繋がる。

兆民が40歳のときに刊行した『三酔人経綸問答』には、
こうした内面的葛藤が色濃く反映されている。
西洋近代思想を代表する洋学紳士、拡大政策の国家主義を主張する豪傑君、
弁証法的な現実主義者の南海先生、どの登場人物も兆民の分身である。

「自由を軍隊とし、平等を要塞にし、博愛を剣とするなら、
敵とするものが天下にありましょうか」と問う洋学博士に対し、
「憤怒は道義心の表れで、道義心のある者で怒らない者はいない」とする豪傑君は、
勝利を求め快楽を願い、努力するのが人間的本質ではないかと問い返す。

南海先生の出した結論は「政治の本質は国民の意向に従い、国民の知的水準と見合いつつ、
平穏な楽しみを維持させ、福祉の利益を得させること」と踏まえ、
「外交上の良策とは、世界のどの国とも平和友好関係を深め、
万やむを得ない場合にもあくまで防衛戦略を採り、遠く軍隊を出征させる労苦や費用を避け、
人民の彼の重荷を軽くするよう尽力」するのが重要とする。

今の時代から見れば新しさはないが、明治の代では勇気がなければ口に出せない言葉である。
昨今の外交政策を顧みると、南海先生の常識的な発想さえ、忘れられているような気がする。
兆民の人権主義を理想論として切り捨てるのか、それとも基本的コンセンサスとして守るのか。

今だからこそ私たちの問題として突きつけられている。

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2011年7月 7日 (木)

『学問のすすめ』(福沢諭吉)

財布の中にご尊顔を拝すると、思わず手を合わせたくなる福沢諭吉だが、
豊前中津藩の大坂蔵屋敷で生まれ、幼い頃に父を失い、
「門閥制度は親の仇」と語ったように、溢れる才能を活かしきれない青春を過ごしている。

藩命で緒方洪庵の適塾に学び、幕臣として欧米に派遣されているのだから、
能力を開花させる環境には恵まれていた。

上野の山で彰義隊と官軍が血みどろで闘っていたときに、
諭吉は平然と経済学の講義を続けたという逸話が残されているが、
江戸幕府でも明治政府でも主流派になれない自らを思い、
独自の道を切り開く覚悟を胸に秘めていたに違いない。

維新前夜に著した『西洋事情』を皮切りに、
『学問のすすめ』『文明論之概略』『福翁自伝』と諭吉は著作活動を展開し、
新しい文化と思想を日本に根づかせていった。

とりわけ『学問のすすめ』は20万部を超えるベストセラーになり、
当時の知識人に強い影響を及ぼした。

「人は学ばなければ智恵がない。智恵がなければ愚かな人になる。
智恵のある人と愚かな人の差は、学ぶか学ばないかによって分かれてしまう」

「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という言葉で知られた諭吉だから、
人間は本来平等と考えている。
それでも金持ちと貧乏人に分かれてしまうのは、学ぼうとする意欲の違いと主張する。
人生の成功は努力しだいというわけだ。

「文字を読むことだけを学問と考えるのは心得違いだ。
文字は学問をするための道具であって、家を建てるのに鋸や槌を使うのと同じ」であり、
「古事記を暗唱できても、今日の米の相場を知らない人は、
世間の学問を知らない人と言うべき」ということになる。

「夏の夜に自分の身体に酒を注いで蚊に食われ、親に近づく蚊を防ぐよりも、
酒を買う金があるなら蚊帳を買うのが智恵のある人だ」とは、
朱子学の代表的な忠孝の故事を皮肉り、従来の思い込みを合理的な論理で説き伏せている。
理屈に合わないことを、諭吉は決して認めない。

諭吉は慶應義塾大学の創始者としても知られるが、
成功した文化人として箱をつくったわけではない。建学の目的は、
「天の道理に基づき、人の情けに従い、他人の妨げにならないで、自分自身の自由に達する」

「人類多しといえども、鬼にもあらず蛇にもあらず。
恐れ憚ることなく心事を丸出しにして、さっさと応援すればいい」と場を提供する。

『学問のすすめ』の末尾が、
「人にして人を毛嫌いするなかれ」という言葉で締められているのは、
未来を信じることに情熱を燃やした福沢諭吉のホンネである。

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2011年7月 6日 (水)

『氷川清話』(勝海舟)

明治維新は紛れもなく暴力革命で、官軍、幕軍共に多くの血を流したが、
徳川の拠点である江戸の街と江戸市民は、壊滅的な打撃を受けずに保護された。

幕府から全権を委ねられた勝海舟が西郷隆盛の申し出を受け、
江戸城をあっさりと引き渡し、将軍を駿府へ移したからである。

海舟は1823年に御家人、勝小吉を父として生まれた。

無官の御家人ということもあり長屋住まいで、伝えられる逸話によると小吉は武士らしくない。
酒を飲み、喧嘩もするが、幼い海舟の背に一本筋を通し、
やさしさと強さが大切であることを伝えてくれた。

ペリーが率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し、ロシア使節プチャーチンが長崎に入港し、
薩長の不穏な動きが京都を揺るがし、幕府という組織に瓦解の危機が訪れたときに、
勝海舟が表舞台に立つ準備がようやく整った。
長崎の海軍伝習所が、そのスタート地点である。

海舟の名を一躍高めたのは、
日本で初めて太平洋を横断する咸臨丸の艦長に任じられてからである。

この渡米によって海舟は日本という国を意識し、
国際社会の中で生きていく必要性を知った。

坂本龍馬が海舟を暗殺しようと訪れ、逆に説得されて世界貿易への志を抱くのは、
海舟が帰国して軍艦奉行に就いてから後の話である。

幕臣でありながら維新の功労者と評価された海舟は、
明治政府から重用され元老院議員や枢密院顧問官などを歴任し、伯爵の称号を授かる。
しかし海舟の本質は生粋の江戸っ子で、
明治の元勲も市井の人々も同じまなざしで捉えていたと、『氷川清話』を読めばわかる。

坂本龍馬は西郷に対し「小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。
馬鹿なら大馬鹿で、利口なら大利口」と評しているが、
海舟はその龍馬を「坂本が西郷に及ばないのは、その大胆識と大誠意にある」と鋭く射抜く。

「大きな人物というものは、そんなに早く顕れるものではない、通例は百年の後だ。
いま一層大きな人物になると、二百年か三百年後だ」と、
坂本龍馬や西郷隆盛の大きさを語れるのも、
彼らと同じ時代を呼吸し、生き残ったからこそである。

その一方で料理屋の女将の見識を紹介し、的を射ていると素直に賞賛する。
爵位や俸給を受けるのも、断る理由がないというだけで、自ら望まないのも海舟らしい。

「俺などは生来人が悪いから、ちゃんと世間の相場を踏んでいるよ。
上がった相場もいつか下がるときがあるし、下がった相場もいつかは上がるときがあるさ。
その上り下りの時間も、長くて十年はかからないよ」

そう達観しているからこそ赤坂の屋敷には、実にさまざまな人々が寄ってくる。
来る者は拒まず、去る者は追わず、海舟は誰に対しても分け隔てなく語りかける。
天衣無縫で融通無碍の人柄が行間から滲み出ているから、
『氷川清話』は今なお温かく新しい。

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2011年7月 5日 (火)

『西郷南洲遺訓』(西郷隆盛)

「子孫のために美田を買わず」

大西郷は大転換の時代を駆け抜け、自らの義に殉じて散っていったが、
私利私欲のない生きざまは、今でも多くの人々に共感されている。

大久保利通と対立した征韓論の是非や、士族階級に基盤を据えた善し悪しは、
西郷を語るうえで些末なことに過ぎない。

西郷と同時代に生きた小栗上野介忠順は、
日米修好通商条約を批准するために、万延元年に渡米した幕臣である。
外国奉行としてロシアと折衝したり、海軍奉行として横須賀造船所を設立したり、
日本の近代化に大きな貢献を尽くしている。幕末の日本のキーパーソンである。

それだけ優秀な小栗でも、鳥羽伏見の戦に敗れた後は、
隠棲していた上州で新政府軍に捕らえられ、わずか39歳の生涯を斬に処せられ終えている。
江戸幕府が倒れなければ、小栗は間違いなく中興の立役者として伝えられていた。

そのように考えれば西郷が、負け戦を承知のうえで政府軍に刃向かい、
城山で自決したのも避けられない運命だったのである。

維新を共に闘った士族の生活が困窮し、出口のないところへ追い詰められていくのを、
西郷は他人事として見過ごせる人物ではなかった。

「生命も、名声も、官位も、金も要らぬという人間は、どうにも始末に困るものだ」

この西郷の言葉を、幼年期から盟友であった大久保は、
そっくりそのまま返したかったに違いない。
その後の日本の外交政策を追えば、大久保が人道的立場から侵略に反対していたのではなく、
経済を背景とした日本の国力が整っていないと判断していたとわかる。

本来なら大久保と西郷の意見の相違は、政治手法の中で調整されるべきものだった。
それがそうならなかったのは、明治の人の直情であると同時に、
頼られたら拒めない西郷の人柄に帰因する。

「窮鳥懐に入らずんば、猟師もこれを撃たず」

「事の大小に関わらず、正道を踏んで至誠を尽くせば、
そのときは遠回りに思えても、先に行けばかえって成功は早くなる」

「過失を改めるというのは、自分で過失を知りさえすれば、それで良いのだ。
その過失を棄てて、新しい一歩を踏み出せば良いのだ」

西郷の遺した言葉を読み返していると、西南戦争以外の選択肢もあったように感じられるが、
「かくなればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和心」
吉田松陰に通じる熱い思いを、分別盛りを越えた西郷は消せなかったのだろう。

理屈だけでは人は動かない。
その要諦を明らかに示すのが、西郷隆盛という人物である。

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2011年7月 4日 (月)

『言志四録』(佐藤一斎)

『言志四録』は幕末の儒学者、佐藤一斎が42歳で著した『言志録』を基にして、
その後に書き継がれた『言志後録』『言志晩録』『言志耄録』を合わせて呼ばれている。
『言志録』は、孔子が弟子の顔淵や子路と共に、それぞれの志を述べた故事に由来している。

佐藤一斎は美濃の人で、巌邑藩家老の家に生まれている。
幼い頃から四書五経を学び、後に大学頭、林述斎となる藩主の第三子と机を並べていた。
林述斎は後に一斎の師となる。

21歳で士籍を離れた一斎は、
上方で学んだ1年後に江戸の林家の門を叩き、儒学者として生涯を捧げる決意を固める。
34歳で林家の塾長となり、55歳のときには老臣として巌邑藩から迎えられ、
70歳で師を嗣ぎ幕府の儒官となる。

横井小楠や佐久間象山らが一斎に学び、
吉田松陰や勝海舟らに影響を及ぼし、時代を突き動かす原動力に育っていった。

一斎の言葉は、寸鉄人を刺す。
それは一斎が世の中の表層的な権威に捕らわれず、
常に人間や社会の本質と向かい合っていたからである。

存命中に高い評価を得ていたが、
そうでなくとも一斎の言動は変わらなかったに違いない。
そうした強さが、一斎の魅力である。

「人から信頼を得ることは難しい。人は言葉を信じずに、行動を信じようとする。
いや本当は行動を信ぜずに、心を信じようとする。
しかし自分の心を他人に示すことは難しく、
それを理解できるなら、信頼を得ることがどれだけ難しいかがわかるだろう」

「理路整然とした言葉には、誰もが納得せざるを得ない。
しかしその言葉が激情的なら人は服せず、強制的に感じられたら人は服さない。
私心を差し挟んでも人は服せず、自分に便宜を図ろうという気持ちが表れても人は服さない。
筋が通っている言葉に人が納得しない場合は、自分自身を反省しなければならない。
自分が心から言葉に従って、はじめて他の人も従える」

一斎の心の中がどれだけ熱く吹き荒れていても、冷静沈着な態度を崩さなかった。
他人を責めるより先に自らを省みるのは、口で言うほど簡単にできることではない。
ついつい自分を甘やかし、うまくいかない原因を他に求めようとする。

「植えられた樹木は、一生懸命に育とうとする。
その助けになる雨や露は、もとよりいきいきとした自然なものである。
根が傾いている植物は、朽ちて大地に戻る。霜や雪でさらに早く倒されるが、
これもまた雨や露と同じいきいきとした自然なものである」

周囲の状況が変化していても、本質は同じであることは多い。
真っ直ぐ伸びようとするときは雨や露になる水が、
どこかでボタンを掛け違えると霜や雪となって襲う。

「心が憂鬱で塞がれていると、考えていることのすべてが誤ってしまう」

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2011年7月 3日 (日)

『日暮硯』(馬場正方)

『日暮硯』は信州松代藩の家老、恩田木工の藩政改革の事績を伝えたものである。

江戸時代中期の藩政改革が、日本企業再生のヒントに繋がると考えられ、
恩田木工は上杉鷹山などと共に注目された人物だ。
この時期に『日暮硯』について書かれた書物も少なくない。

信州松代藩は戦国の名将、真田昌幸の家系であり、
信之の代に上田から松代の地へ転封されている。
善光寺平の肥沃な平野に恵まれているが、犀川と千曲川が合流するために水害が多く、
修復を図らざるを得ないため藩の財政は逼迫していく。

恩田木工が家老として辣腕を振るったのは、六代藩主、真田幸弘のときである。
幸弘はわずか13歳で家督を相続し、すでに家老職であった恩田木工を信頼し、
木工が40歳のときに勝手御用兼帯を命じ、藩主に代わり会計や事務全般を取り仕切らせた。

木工の改革は成果をもたらし、幸弘は松代藩中興の名君と称されるようになるが、
木工自身は1762年に46歳の生涯を閉じることになる。
松代藩がいかに厳しい状況に置かれ、
木工が心身共に追い詰められていき、命を削ったことは想像に難くない。

御側衆が藩主の関心を引こうと、鳥を飼うように進言した逸話が記されている。
木工は大きな鳥籠を誂え、進言した家臣をその中に住まわせる。
それを見ていた藩主は鳥を飼う思いを捨て、贅沢を慎み倹約を励む。

その一方で進言した家臣を責めず、忠義の心を評価して金十両を与えている。
ここまで心を砕いていけば、神経がすり減るのもやむを得ない。

木工が勝手御用兼帯を受けるときの覚悟も凄まじい。
家中全体の了解を強く求め、妻子や親族どころか家臣にまで縁切りを迫る。
わが身を滅ぼそうとも、孤立無援で闘い続ける決意を示し、実際に志し半ばで倒れていく。
藩主の信頼に対して、全身全霊を傾けて応えた。

木工の改革は、質素倹約を錦の御旗に掲げ、苛烈を極めたわけではない。
悪徳役人を処罰する際にも、
「これらの者どもは善い指導者が使えば善くなり、悪い指導者が使えば悪くなる」
と藩主を説き伏せ、彼らの能力を最大限に活かしきった。

領民に対しても
「相応に楽しみをせよ。慰みには博打なりとも何にても好みたることをして楽しめ」と、
日々の生活が窮屈な意識で捕らわれないように配慮する。
それでいて賭博の流行が行き過ぎると、毅然とした姿勢で敢然と改革を断行する。

恩田木工の真骨頂は、こうした現実に則したバランス感覚である。

それを発揮するためには、常に細心の注意を払いながら、私心を捨て決断せねばならない。
組織を革新するにはシステムを入れ替えるだけでなく、人の心を揺り動かさねばならないと、
木工は私たちに教えてくれる。

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2011年7月 2日 (土)

『都鄙問答』(石田梅岩)

洋の東西を問わず長い間、学問は原則的に支配者のものであり、
庶民が知識に接するようになってからの日は浅い。

日本でも江戸時代に寺子屋が普及し、ようやく読み書き算盤が手の届くものになった。
その背景にあるのは近世の経済成長だが、道を切り開いた先駆者の存在を忘れてならない。
代表的な人物が、石門心学を広めた石田梅岩である。

梅岩は1685年に、丹波国東懸村で農家の石田家に生まれた。
農家といっても苗字を許されているのだから、恵まれた環境で成長したと想像される。
11歳で京へ丁稚奉公に上がり、15歳で帰郷したが、
23歳のときから京の商人、黒柳家に仕える。

幼少期から求道精神に溢れ、独学で仏典や孔孟、神道などを読みあさり、
35歳のときに小栗了雲と出会い師事する。
その後も真実を探る葛藤は繰り返され、43歳のときに奉公を辞し、
京都車屋町で私塾を開いたときには、すでに45歳の齢を重ねていた。

『都鄙問答』は梅岩の思想をまとめたもので、
「道話」と呼ばれる形でわかりやすく展開する。
人間は基本的に平等と説きながら、士農工商それぞれの本分をまっとうすると諭す。
とりわけ商いの道に対しては、積極的に肯定的な見解を示す。

忠孝を重視した儒教をベースにしながらも、
老荘思想を縦横無尽に採り入れ、仏教や神道もこだわらずに溶け込ます。
一見矛盾しているようだが、庶民の生活感覚と合致するところが多いから、
梅岩の思想は燎原の火のように急速に浸透していった。

『都鄙問答』には、思想としての新しさはない。
すべて古典を庶民の視点で解釈し、実践に役立つように説き明かしている。
辻褄の合わないところもあれば、強引な繋げ方も決して少なくない。
しかしそれでも現実に生きる人たちに、強い説得力を持っていたのは間違いない。

寺子屋の手習い本に使われただけでなく、
江戸佃島の人足寄場へ教えに赴いたり、飢饉に際して施米などの救済に走ったり、
梅岩を中心とした門下生の行動が庶民の耳目を集め、
言葉の一つひとつが信頼されるようになったことも重要である。

梅岩の弟子である手島堵庵や中沢道二によって、
町人が学ぶことを怪しまない時代が訪れた。

幕末や明治の日本の動乱期を支えた人々には、農家や商家を出自とする者が多かったが、
その根源をたどれば、石田梅岩の処世哲学が存在している。

質素と倹約、正直と精励など、梅岩が説いたのは庶民が本来持っている倫理観であり、
ことさら新奇な思想を紹介したわけではない。
しかし不鮮明な意識に言葉を与え、方向性を明らかに示すことで、
庶民のモチベーションを刺激した梅岩が果たした役割は大きい。

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2011年7月 1日 (金)

『風流志道軒伝』(平賀源内)

土用の丑の日に鰻を食べるのは、日本人なら当たり前のように考えているが、
実は平賀源内のコピーに乗せられて、幕末から始まったブームの延長に過ぎない。
博覧会のひな形になる物産会も発案し、エレキテルや寒暖計など実利的な発明品を紹介した。

源内は1728年に讃岐国志度浦に生まれ、
21歳で家督を相続したのを機会に白石姓から平賀姓に改め、
その3年後には藩命で長崎に遊学している。

高松藩主、松平頼恭に幼少の頃から才能を認められ、
大きく花を開かせる舞台を与えられていた。

しかし長崎でオランダの文化に接した源内は、さらに広い世界での躍進を望んだ。
25歳で家督を妹婿に譲り江戸に上ると、水を得た魚のように活発に動き始める。
風来山人と号して戯作に手を染めた33歳には、正式に藩に願い出て天下の浪人となる。

『根無草』『神霊矢口渡』など戯作や浄瑠璃を著す一方で、
大和の吉野山から秋田藩領内まで鉱山を調査、開発し、
国学、西洋画法、陶磁器など幅広い分野で才覚を発揮している。
飛ぶ鳥落とす勢いの田沼意次にも知遇を得て、その支援によって再び長崎遊学を果たしている。

ところが46歳のときに秩父中津川の鉱山経営に失敗し、
翌々年にエレキテルを医療器具として事業化しようと試みたが、
大名や豪商からの後援を受けられず頓挫する。

この頃に書かれた『風流六部集』は、
憤怒と自棄に揺れ動く文章で、世間を痛烈に批判している。

失意の日々を重ねる源内は、ついに人を殺めて入牢する。
わずか1ヶ月後、その獄中で病魔に襲われ、52歳の波瀾万丈な生涯を閉じる。

今の時代に生まれていたなら、世界的なプロデューサーとして成功を収め、
悠々自適の余生を楽しんでいたかもしれない。

風流志道軒伝』は源内が35歳の著作だから、風刺が前面に出ているわけではないが、
それでも歯に衣着せない表現は、当時から源内の独自性を際立たせている。

「唐の風俗は日本と違って、天子が渡り者同然だから、気に入らなければ取り替える。
天下は一人の天下でなく、天下のための天下など、
減らず口を言い散らして主人の天下を盗むような不埒千万な国だから、
聖人が現れて教え導かねばならない」

こうした文章を発表して何のお咎めも受けなかったのは、
源内の人脈がどれほど強固だったかを物語っている。

素直に読めば紛れもなく幕府批判であり、朱子学の否定である。
門松を千代松と祝う風習を笑い、根がない拵え物が長く生きられるはずがないと看破する。

源内は幕末の世に許された異星人であり、刹那的にも未来を切り取る境遇を得た。
それだけに組織に捕らわれない日本人の原風景が、源内の言葉の端々からこぼれ落ちている。
私たちの想像力がどこまで拡大できるのか、自らの可能性を示唆してくれる人物である。

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