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2011年6月24日 (金)

『風姿花伝』(世阿弥)

檜舞台で演じられる能楽は日本文化を代表するものだが、
今に伝わる原型を築いたのが世阿弥の父、観阿弥である。

大和猿楽の結崎座を立ち上げた観阿弥は天才的な役者であると共に、
創生期の能楽の代表作を数多く遺した作家でもある。

当時の将軍、足利義満から寵愛され、観阿弥は飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、
巡業先の駿河で客死し、世阿弥が名跡を継いだのは弱冠22歳。

能に興味がない人でも、世阿弥が創った『高砂』という謡曲を、
結婚式などで耳にしたことはあるに違いない。

元々は大衆芸能から出発した能楽だが、その後も豊臣秀吉に賞賛され、
江戸時代に入ってからも大名に召し抱えられ、格式の高い芸術として生き延びてきた。

常に大衆から支持されてきた歌舞伎とは一線を画しているようだが、
世阿弥の遺した『風姿花伝』に目を通すと、
肉体を通して表現する共通項が浮かび上がり、演劇のルーツを見る思いがする。

「上手な役者にも欠点はあり、下手な役者にも長所はある。
これを見抜く人もなく、本人もわからない。

上手な人は名声に頼り、技術に隠され、欠点が見えない。
下手な人は自分自身で創意工夫しないから、どこが欠けているか理解できず、
たまたまある長所にさえ気づかない」

当代随一の能作家、能役者と持て囃されながら、
世阿弥は芸を磨くことに全身全霊を傾ける。
「芸のためなら女房も泣かす」と見得を切ったのは浪速の春団治だが、
時代や背景が異なっていても、何かに取り憑かれて極めるが芸道なのだろう。

「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。この分け目を知ること、肝要の花なり」

『風姿花伝』を象徴する一句は、こうした文脈から生まれてくる。
能役者はあらゆる世代を超え、
男女の性別や貴賤を問うこともなく、見事に演じなければ成立しない。
自分を前面に打ち出しすぎたら、伝えたい内容を伝えられない。

だからといって形だけを模していたら、誰も振り向いてくれず、
役者は舞台にひとり取り残される。どこの世界にも通じる真実だ。

『風姿花伝』は能楽の奥義だから、演じる際の細かい技術についても詳述している。
舞台に立とうとする人にとっては、これは紛れもなく実践的なテキストだ。
それぞれの年代や立場に応じて、与えられた役に対して、どのように考え行えば最善かを示唆している。

しかしそれ以上に興味深いのは、信ずる道をまっとうするには、
自分自身と向き合わねばならないことを教えていることだ。

「時流に乗って認められたことを、実力だと勘違いしてしまう気持ちが、
芸の本質に達する道を遠ざける」と諭され、
初心に戻らねばならないと受けとめるのは私だけではない。

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