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2011年6月22日 (水)

『正法眼蔵』(道元)

福井県の永平寺は、私のような門外漢が物見湯山で訪れても、
凛とした空気に背筋が伸びてしまう古刹である。
深い自然の懐に抱かれているロケーションもあるが、
それ以上に磨き抜かれた回廊から、僧侶たちの厳しい修行の日々が偲ばれるからだ。

道元が開いた曹洞宗は、強い意志を求められる禅宗の中でも、
ひときわストイックな宗派として知られている。

ただひたすらに座禅を続ける「只管打坐」という言葉も、
道元に対する鮮烈なイメージと重なり合ってくる。
それは『正法眼蔵』が伝えるものである。

道元は、既成仏教の最高位とされる紫衣を批判して、
袈裟に絹ではなく木綿を用いるよう勧める僧侶たちを一笑に付す。

本来の法衣は捨てられた衣を継ぎ合わせたもので、
糞掃衣と呼ばれていたことを思い出させる。
行き倒れた死人から衣を剥ぎ取り、それを身に纏うのが、
真理を求める僧侶には最も似つかわしいと説く。
たとえ丸裸にされても、道元は決して狼狽えない。

『正法眼蔵』の中には、顔の洗い方、歯の磨き方から、便所の使い方へ至るまで、
その理由を明らかにしたうえで、一つひとつをていねいに説明している。

窮屈なようにも思われるが、修行を観念的なものとして終わらせず、
それぞれの恣意的な解釈で歪められず、
正しい法則として普遍化させるには最も合理的な伝え方だ。
身体で覚えないことは、人は身につけられない。

こうしたフィジカルな思考回路をベースにしているから、
道元が釈迦の直弟子たちを描くにも臨場感が生まれてくる。

釈迦が差し出した一輪の花を、微笑んで受けた摩訶迦葉が、
後継者として布教の先頭に立ったのも、道元の言葉からすんなりと受け入れられる。

道元によれば「迷い」とは、
「自分にこだわって、自分の意識の外に在る世界を認識しようとする」ことであり、
「悟り」とは、「森羅万象の法則の中に自分を見いだす」ことである。

それを喩えて、「水に月が宿るように水と月が一体になり、
月が濡れることもなく水が破れることもない状態」としている。
自らを捨て去ることが、自然の中に溶け込む手法ではない。

こうした表現が、そのまま理解されるとは、道元は考えていない。
空理空論を重ねても、水掛け論に終わるのが関の山だ。
本当に悟りを開きたいなら、よけいなことは言わず、ひたすら座れば良い。

肉体の抵抗を脱却し、心が揺れ動かされなくなったとき、
人は宇宙の法則の中に、極めて自然体で受け入れられる。
座ることを拒めば、最初の一歩を踏み出せない。

道元の思想が自力本願と呼ばれるのは、行動への具体的な示唆があるからだ。
これは仏教に帰依しなくとも、すべてに通じる真実に違いない。
正しいか否かを知るより、行動を起こすのが大切である。

道元の言葉は、人生の軌跡に裏付けられているから、
過激でも浮き上がらない。

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