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2011年6月21日 (火)

『歎異抄』(親鸞)

岩波文庫の『歎異抄』で、本文は僅か50ページ、
解説を含めても100ページに満たない薄い本だ。

「弟子ひとりも持たず」と語った親鸞の言葉を、
唯円が誠意を伝えようと編纂したものである。

親鸞の教えた浄土真宗は日本全土に浸透し、
本願寺を拠点として一大勢力に成長したうえに、
歴史の転換に重要な影響を及ぼし続けている。
今もその流れは絶えない。

親鸞は比叡山で20年間、修行を重ねても悟りを開けず、
法然上人と出会い他力本願の啓示を受けた。

貴族政治から武家政治の転換期で、鎌倉幕府が禅宗を保護する政策を打ち出し、
念仏宗派の親鸞は越後に流されることになる。この地で恵信尼と結ばれた。

幕府から還俗を命じられた親鸞は、すでに僧侶と認められていなかったわけだが、
仏への思いは誰にも止められない。
越後から常陸へ移り、さらに京の善法房に居を構えるまで、親鸞は民衆に説法を繰り返した。

60歳を過ぎてから『教行信証』や『三帖和讃』を著したが、
私たちに最もわかりやすいのは、やはり『歎異抄」をおいて他にはない。

親鸞はひたすらに念仏を唱えるように説くが、それで極楽往生を約束しない。
死んでから後に地獄の業火に焼かれるか、それとも浄土で過ごせるのか、
親鸞にもわからないという。

それでも仏にすがるのは、師である法然を信じるからだ。
法然の言葉に騙されて、地獄に堕ちても後悔しないと言い切り、
揺るがない気持ちを持続させるから、人々の心は動かされる。

『歎異抄』は簡潔でありながら、それでいて骨太い。
よけいな注釈は加えず、強く覚悟を迫るだけでなく、
雑念を拭い去る清らかさに溢れている。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という一句は、
すべてを投げ捨て仏の慈悲に救いを求める意志である。

人は生まれながらにして、平等の環境では育たない。富める人もいれば、貧しい人もいる。
悪に染まりやすい人もいれば、まるで無縁な人もいる。
そうした人智を越えた天の配剤を、親鸞は恨むことなく受け入れる。

どのように生まれ育ち、何を行ってきても、
仏の前では同じ衆生とわかっているから、罪深き人と自らを分け隔てようとしない。

煩悩の晴れない私には、親鸞の潔さは眩しすぎる。
打たれても、流されても、親鸞は純粋に仏を信じ、
誰にも強制することなく、自らの後ろ姿ですべてを語り尽くした。
世間からの評価を気にしない。

『歎異抄』には、穏やかに暮らす奥義が伝えられている。
振り子のように定まらない心の内を見透かされ、剥がれ落ちない夾雑物を洗い流される。
大切なのは他人の目でなく、自分自身がどのように生きたいのか、
それを思い知ることである。

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