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2011年6月23日 (木)

『徒然草』(吉田兼好)

清少納言の『枕草子』と並んで日本を代表する随筆だから、
誰もが一度は『徒然草』の一節を目にしている。

自分で読む気はなくとも、中学校の教科書に載せられているから、
否応なく覚えさせられた人も少なくない。
文法とセットになっていれば、なかなか中身を楽しめない。

しかし兼好法師という人は、決して優等生の発想はしない。
いつも世の中を斜めから眺め、小気味よく切り捨て憚らない。

世捨て人という立場だから、誰も口に戸を立てられない。
鎌倉幕府が衰退し、室町幕府へ移る頃だから、兼好ひとりに関わってもいられない。

ほぼ同時代を生きた鴨長明の『方丈記』と読み比べると、
『徒然草』の魅力が鮮明になってくる。

ひたすら無常観に捕らわれ、恨み節を綴った鴨長明に対し、
兼好法師は前のめりに世間と向かい合い、
ケレン味たっぷりに毒づいている。要するに陽性なのである。

「狂人の真似だと言って大通りを走り抜けていけば、それはもう狂人なのである。
悪人の真似だと言って人を殺せば、それはもう悪人なのである」と、
観念が先行する時代の中で、行動によってしか判断されないと喝破した兼好法師は、
知識人の陥りがちな罠に填らず、肉体で考えることのできた人物である。

それだからこそ『徒然草』は今も色褪せず、私たちの心の中でリズミカルに踊る。
横町の隠居に話を聞いているように、一つひとつ賢くなったような気にさせる。
とりわけ庶民に対するまなざしは深く、当時の人々が目の前に現れてくる思いだ。

「世の中に語り伝えられることは、
真実通りではおもしろくないのだろうが、ほとんど虚構でしかない。
人は真実より大袈裟に話をつくってしまうものだが、
歳月を経て場所も遠く離れてしまうと、話に尾鰭がついたまま文章として記録されて、
いつしか空言が事実として定まってしまう」と、
常に醒めた意識を持ちながら、兼好法師は『徒然草」を綴った。

犬が人を噛んでも誰も驚かないが、人が犬を噛めば耳をそばだてる。
そうすると作為的に犬を噛んで、衆目を集めようとする輩が現れる。
そのほうが商売になれば、噛みたくない犬を噛み続け、
犬を噛まない人を時代遅れと非難する。
同じような風景は、今も昔も変わらない。

私のような凡人は、犬を噛まないと指摘されると、
それが自分の至らないところと悩み、恐々ながら犬に近づこうとする。
逆に犬に吠え立てられ、這々の体で逃げていく。

そうした愚かさを戒めるように、兼好法師はこうも言っている。
「改めて益なきことは、改めぬを善しとするなり」

骨太の兼好法師の言葉に接すれば、失いかけた自分を取り戻せる。

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