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2011年6月13日 (月)

『荘子』(荘子)

荘子は紀元前4世紀後半、戦国時代の宋に生まれた。
人生の大半を思索と著述で過ごしたというから、
夏目漱石が理想とするところの高等遊民である。

世間から重用されることもなく、
自分の世界を突き詰めるだけで、暮らせるだけの境遇に置かれていた。

荘子は老子と結びつけられ、老荘思想と言われているが、
共通するのは個人をベースにして、世界を切り分けていたことである。

老子と比べるとさらに観念的で、現実と架空の境界線を設定していない。
それだけに読んでおもしろく、ファンタジーの印象すらある。

「北の海の果てに大魚がいて、その名を鯤という。
鯤の大きさはいったい何千里あるか、見当もつかない。
あるとき突然鳥となって、その名を鵬という」という書き出しは有名で、
「大鵬の志が、小鳥などにわかるか」と続く。

この文章が不遇な人の心を揺り動かし、さまざまな場所で引用されているから、
どこかで目にしたり耳にしたりすることも多い。

荘子の言葉は警句となって、「朝三暮四」「蟷螂の斧」など故事の出典に挙げられる。
アイロニカルな内容が多いが、表現が卓越しているから、多くの人の心と共鳴する。
そう考えるとますます荘子は思想というより、洗練された文学の趣が強くなる。

「沢辺に棲む雉は、十歩あゆんでようやくわずかの餌にありつき、
百歩あゆんで僅かの水を飲む。それでも籠の中で養われようとは思わない。
籠の中では餌や水を充分に与えられて、心身共に健やかになるだろうが、
少しも心楽しむところがないからだ」

こうした一節にぶつかると、荘子の立場がよくわかる。
とりわけ若い世代には、魅力的に感じられるに違いない。
私は四〇代半ばで独立する前に、心に引っかかったことを覚えている。
餌や水を得るのに苦労していないから、自由への憧憬を抱けるのだが……。

孟子が「恒産なくして恒心なし」と語った対極に、
荘子は痩せ我慢して立っている。

生も死も自然な流れと受けとめて、その状況を素直に喜びながら、
他人から支配されることは排除しようとする。
突き詰めていけば、観念の世界に身を委ねるしかない。

竹林の七賢人に継承される中国の代表的な思想で、
気宇壮大な『荘子』を読んでいると、
疲れた心を癒されて再び闘う意欲が湧いてくる。
現実と乖離しているからこそ値打ちがある。

荘子は名誉や栄達を根本的に否定し、あるがままの自分を受け入れる。
ひとつの視点で捉えれば受動的な処世術だが、
別の角度から見れば無理のない生き方である。

思い通りにならないときに、自分自身をあきらめないために、
『荘子』をヒントにするのもおもしろい。

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