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2011年6月30日 (木)

『耳嚢』(根岸鎮衛)

耳嚢』を著した根岸鎮衛は、江戸幕府の旗本である。
元々は甲州の徳川綱豊に仕えていた根岸家だが、
綱豊が5代将軍綱吉の養子になり家宣と改めたときに、共に江戸へ移り御家人になっている。
鎮衛は同じ御家人の安生家から、22歳で養子に迎えられている。

150俵扶持の御勘定として出仕した鎮衛は、47歳で佐渡奉行に任じられ、
その後は御勘定奉行を経て、江戸南町奉行にまで昇進している。
79歳で退任したときには千石の待遇を受けていたから、
鎮衛がどれだけ立派に働いたか容易に想像できる。

記録によれば日光東照宮や京都二条城の普請、関東および東海道の川普請、
浅間噴火後の復興などに功績をあげたという。
こうした激務の傍らで、鎮衛は『耳嚢』を書き溜めた。
豪放磊落な人柄は行間から滲み出ているが、読みやすくわかりやすい随筆である。

基本的には鎮衛が耳にした話を聞き書きにしているので、奇談や胡散臭い内容も少なくない。
奉行という立場からなのか、さまざまな階層のエピソードを、鎮衛は懐深く拾い集めている。
登場する人物がすべて実名なのも、一つひとつが真実であることを物語っている。

神田駿河台で梅を大切に育てていた山中平吉が、医者が見放すほどの大病を患ったとき、
夢枕で梅が処方箋を説き、目が覚めると身代わりに枯れていたという。
こうした不思議な現象を通して、江戸の庶民は木々が生きていると実感した。

主人の用事で大金を手にした中間が、それを着服して遁走しようと邪心を起こすが、
自分を信頼する主人を推し量り思いとどまる。
しかし一度でも裏切ろうとした自分を許せず、ありのままを主人に告げて暇乞いを願う。
それを聞いた主人は正直な気持ちに打たれ、長い間その中間を重用したという。

それぞれの心の動きを察すれば、人間関係の奥深さが伝わってくる。

『耳嚢』を貫くのは、江戸時代を生きた人たちの倫理観である。
人知れず善行を積み重ていれば、いつかは必ず報われると信じている。
たとえ本人が気づかずとも、どこかで誰かに助けられるのは、
過去の陰徳がもたらしたものである。情けは人のためならず。

今の時代の常識と照らし合わせ、荒唐無稽と断ち切るのは簡単だが、
与えられた環境の中で精一杯に生きる先人の知恵を見過ごしたら、
『耳嚢』という書物の価値は失われる。

箒草を細かく切って味噌で和え、毎日食べれば視力が衰えない話を読んで、
科学的真実を求めるのは愚かということだ。
自らの身体を慈しむ気持ちを、きちんと受けとめればそれで良い。

思わずニヤリとする話や、眉に唾をつけたくなる話を読み重ね、
気がつくと私たちが忘れていた感性を思い出す。

読み終わった後に穏やかな心情になるのは、
そこに日本人が本来持っているアイデンティティが潜んでいるからだ。
さまざまな思いが脳裏を駆け巡る。

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2011年6月29日 (水)

『北越雪譜』(鈴木牧之)

雪深い越後だからこそ温かな文化が育まれることを、
私たちに教えてくれたのが鈴木牧之が著した『北越雪譜』である。
清らかな雪が、心の中で舞う思いがする。

鈴木牧之は1770年に越後国塩沢で、
質屋と縮布と商いを営む鈴木恒右衛門の長子として生まれている。

上杉家が会津に転封されたのを機に帰農した家柄だから、
牧之が文筆を志す文化的環境は整っていた。
幼い頃から四書素読を習い、江戸の絵師から手ほどきを受けたこともある。

江戸へ行商に出かけるようになると、生来の文化的思考はますます強まったが、
牧之は仕事第一の本義を崩さず、その結果、身代はますます大きくなり、
52歳のときには郡代、代官から町年寄格を仰せつけられるまでに至っている。
押しも押されもしない地方の名士である。

脇目も振らずに働いていただけでなく、江戸の書家、沢田東紅に入門したり、
山東京伝や岡田玉山らの文化人と交遊している。
自選の俳諧集『秋月庵発句集』を初めとして、
『秋山記行』『上毛草津霊泉入湯記』『北海雪見行脚集』などの著作も遺している。

このような半生の中で、牧之の心には
「郷土の雪と人々の暮らしを描いて世に知らしめたい」という思いが熟していった。

単に書き遺すだけでなく、伝えたい思いが強いことから、
江戸の版元や文化人を巻き込もうと奔走し、
『北越雪譜』が刊行されたのは1837年、牧之が67歳のときであり、
余命はわずか5年しか残されていなかった。

最初の構想と異なり、「春の部」しか送り出せなかったが、
それでも『北越雪譜』の内容は濃い。
雪国の年中行事や名所旧跡に触れ、芭蕉の足跡や名僧の略伝を語るだけでなく、
鮭の養殖など産業の提唱にまで及び、さながら『雪国百科全書』の趣がある。

「雪が一尺以下の深さなら、辺り一面は銀世界となり、
雪の舞い降りるさまを見て花にたとえたり、玉と比べたり、
賞翫するのが和漢古今の通例だが、これは雪浅き国の楽しみにすぎない。

わが越後のように、年々歳々幾丈もの深い雪を見るところでは、
何が楽しいと言えるのだろうか。
雪のためにどれだけ力を尽くし、財貨を費やし、艱難辛苦するのか、
これから述べることから想像してほしい」

牧之はこう語りかける。

越後の人は、半年を雪に埋もれて暮らす。
短い夏に五穀を納め、昼も暗夜のように燈火を灯す。
鳥も獣も去った冬には、人と熊だけが朝夕を共にする。

雪国を厭わしく思っているだけでなく、そこで生きる命のたくましさに目を注ぎ、
雪国の全体像を正確に伝えようとするのが、牧之の真骨頂である。

大地に根ざして暮らすとはどのようなことなのか、
行間から滲み出てくる一冊である。

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2011年6月28日 (火)

『蘭学事始』(杉田玄白)

杉田玄白は前野良沢と共に、『解体新書』を翻訳したことで知られている。

幕末に一挙に西洋文化が流入した時代背景があり、
日本で最初の実証的解剖書『蔵志』を著した山脇東洋の影響を受けたこともあるが、
前人未踏の領域へ踏み込んだことは間違いない。

『蘭学事始』は玄白が83歳の老境に著し、門下の大槻玄沢に校注を託していたが、
江戸時代には写本しか出回らず、明治時代になって福沢諭吉が発掘している。
新しい文化と出会ったとき、先人がどのように奮闘努力したか、克明に記されている。

「近頃、蘭学ということが普及し、志を立てた人は熱心に学ぶが、
そうでない人はみだりにこれを誇張して、(中略)
名声を高め利益を得るために流布している」

半世紀前に数人の協力者と共に、海のものとも山のものともつかない西洋文化と格闘し、
成果をあげてきた玄白翁にとって、浅薄な蘭学の流行は不本意だったに違いない。

「長き春の一日に明らかにできず、日が暮れるまで考え詰め、
お互いの顔を睨み合いながら、わずか数行の文章を一行も理解できない」まま、
さまざまなツテを使って文献を手に入れ、通詞たちから身振り手振りで言葉を教わり、
玄白翁らは楔を打ち込んできた。

どれだけ苦労しても報われない作業が急激に展開するのは、
小塚原の刑場で50代の女性の死刑囚が解剖されるのを実際に見てからである。

『解体新書』の原本である『ターヘル・アナトミア』の図譜が正確なことに驚き、
一つひとつの言葉が何を指しているのか理解できるようになった。
頭で考えるだけでは、次の一歩を踏み出せなかったのである。

「応神天皇のときに百済の王仁が漢字を伝えてから、
代々の天皇が学生を異国へ派遣し、数千年を経た今になって漢字が定着した。
そのように考えれば初めて提唱する蘭学が、にわかに成就する道理はない」と、
必死の覚悟が門を開いたのは言うまでもない。

「一滴の油を広い池に落とせば、散って広い池全体を満たし」
その結果「一匹の犬が真実を吠えれば、数多くの犬が虚偽を吠える」ことになる。
玄白翁が天寿をまっとうする直前に、
自らの言葉を遺したかった気持ちは、痛いほどよくわかる。

『蘭学事始』には日本人の素晴らしさと、追随する発想が両方読みとれる。
残念なことに歴史のフィルターを通さなければ、
オリジナルとコピーの峻別がつかないのは、今も昔も本質的に変わらない。
欧米の文化を紹介するだけで、知識人を装う人々は後を絶たない。

杉田玄白を先駆者と持ち上げて、
『蘭学事始』には苦労話が書かれていると思うのは、あまりに軽い読み方である。
一番大切なのは玄白らの意志であり、真実を追い求める心の動きである。
結果を伴わなかったとしても、彼らは生涯を信じる道に懸けた。

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2011年6月27日 (月)

『養生訓』(貝原益軒)

「健康のためなら死んでも構わない」と本末転倒な言葉が飛び出すほど、
現代人は健康に対して神経質に注意を払う。
食物から摂取すべき栄養素を、サプリメントで補おうとするのが、
いかにもコンビニエンスな風潮である。お金さえ払えば、健康さえ買える。

こうした風潮を怪しむ人に、『養生訓』は興味深い1冊である。
福岡黒田藩に儒学者として仕えた貝原益軒が、84歳で著した書物である。
本人が当時としては希有の長命だから、一つひとつの言葉に強い説得力がある。
心構えだけを説いた本ではない。

「人生は50歳に至らなければ、血気も定まらず、知恵も生まれてこない。
古今の学識にも疎いままで、世の中の移り変わりを理解することもできない。
発言は誤りが多く、行動は後悔することが多い。人生の理屈も楽しみもわからない」

益軒の目で見れば、50の坂を越えたばかりの私など、洟垂れ小僧でしかない。
居眠り運転の車に追突され、暗い気持ちでリハビリに通う私に、94歳の老人が語りかけた。

「あなたのように若ければ、何でもできるから羨ましいよ。私も90までは元気だったが、
この数年でめっきり体力も落ち、思ったことがなかなかできない……」

40年以上の差があるのに、生きる意欲は私より旺盛だ。
同じ歳まで生きられる自信など、不摂生を重ねた私にあるわけがない。
身を慎み勤勉に働き続けてきたから、老人は90を過ぎても矍鑠としていられる。
益軒のライフスタイルも、基本的には変わらない。

「人が世の中を渡るのに、心をゆったりして争い事をせず、筋道に従って行動すれば、
誰からも咎められることなく、世間は広くなる。こうした人が長生きできる」

 だからといって、ほんやりと暮らしていたら、周囲から責められる。
務めるべきことを務め、飲食欲・色欲・睡眠欲を慎まねばならない。
言葉数が多い人は元気を失い、少ない人ほど徳を養う。
やはり私は長生きできないと、益軒から烙印を押されそう。

本草学をベースにして博識の益軒は、
自らの体験を織り交ぜながら、呼吸法から食事、性交に至るまで、
具体的にわかりやすく長生きの秘訣を伝授する。

益軒の名を知らずとも「接して漏らさず」という言葉は、
どこかで耳に入っているだろう。性交も中庸が肝心である。

『養生訓』は修養書でも実用書でもなく、人生の要諦を語っている。
長く生きるのが目的でなく、長く生きることで人間を極め、社会に役立たねば意味がない。

内省的で謙虚な生活態度を養生の大前提にするのも、
益軒が常に周囲との調和を重要視していたからである。

活かされるべきときに活かされるために身を慎んでいる。

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2011年6月26日 (日)

『葉隠』(山本常朝)

第二次世界大戦中に高く評価され、
憂国の作家である三島由紀夫氏が絶賛したことから、
いつしか『葉隠』は死を賛美していると勘違いされ、
危険な書物と考えている人が多い。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な言葉がひとり歩きしている。

きちんと『葉隠」を読んでみれば、自分らしく生きることがテーマとわかる。
「死」に対してぼんやり構えるのでなく、心の中で避けるのでもなく、
真正面から向かい合うことで、どのように生きるべきかが鮮明に浮き上がる。
常朝は一度も犬死にを勧めていない。

「武士道の本質は死ぬこととわかった。
生と死と何れかを選ばねばならないとき、早く死ぬことを考えれば良い。
深く考える必要などない。覚悟を決めて行動すれば良いだけだ。
死ぬことで目的が達せなければ犬死になどと言うのは、上方風の打算的な考え方に過ぎない」

上方風の合理的な発想が打算的とは思わないが、
常朝は決して単純に死ぬことがすべてに優先すると言ってない。

生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたとき、
腹を据えて未練を断ち切るように諭しているだけである。
結果を恐れていては、一歩を踏み出す勇気を奮い起こせない。

常朝は、「人間の一生は束の間に過ぎない。好きなことをして暮らしたほうが良い。
夢のように移ろいでいく世の中を、好きなこともせず辛く苦しい思いで暮らすのは、
本当に愚かなこと」と考えていたから、穏やかな日常生活を基に考えた。

穏やかに生きることと、怠惰に生きることは違う。

「名誉にも富にも執着がない人は、たいていはつまらない人間になる。
唯我独尊の高慢な態度を崩さずに他人を批判し、名誉や富を追い求める人より劣ってしまう」
太平の世に馴れた当時の武士階級から、緊張感が失われていることに嘆く常朝の姿が見える。

『葉隠』を読んでいると、まるで今の時代を描写しているような、奇妙な錯覚に襲われる。
大きな組織に守られながら、自分を磨こうとしない人たちは、いざというとき働けない。
常朝が繰り返して説いているのは、いつでも働ける状態に自分を保っておくことだ。

一瞬に生命の火花を散らすことより、長いスタンスで努力を積み重ねる。
本領を発揮するのは「五十歳を過ぎた頃から、ゆっくり仕上げていけば良い。
周囲から出世が遅いと言われるくらいで丁度良い」

大切なのはそれまでの一日一日を、あきらめず弛まず精進することだ。
流されない生き方が、今の時代にこそ切実に求められている。

「逆境にあって疲れ果ててしまう人は、ものの役に立たない」

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2011年6月25日 (土)

『五輪書』(宮本武蔵)

吉川英治が描いた小説『宮本武蔵』は、何度も映像化されたこともあり、
私たちに宮本武蔵のイメージを焼き付けた。

恋人のお通を振り切り、宿敵である佐々木小次郎を巌流島で打ち破り、
剣聖として孤高の生涯を送ったように思われる。
宮本武蔵は痛快である。

しかし実際の武蔵は時代の波に翻弄され、天分を充分に活かしきれず、
肥後熊本の細川藩に招かれたのは57歳の秋だった。

藩主の忠利が他界してからは、
わずかな門人たちに兵法を指南しながら、禅の修行を重ねるしかない。
武蔵が遺した水墨画は見事だが、裏を返せば詩歌や書画に心を慰めるときが長く、
剣を手にして指導する機会に恵まれなかった。

武蔵が生まれたのは1584年だから、織田信長が明智光秀に討たれた2年後である。
関ヶ原の戦いのときは16歳、
21歳で吉岡一門を破ったときは、すでに世の中は武芸者を必要としなかった。

当時から名高い武蔵だったが、彼が望む立場で迎える大名はなく、
日本全土を漂白しながら、自らの天分を持て余したまま働き盛りを終えている。

『五輪書』が編まれたのは1645年、同じ年の春には武蔵は病で逝っている。
60回以上立ち会って負けたことがないと豪語するが、
それはすべて30歳までの過ぎ去った昔話であり、
島原の乱で足を負傷した身では、再び勝てる保証はなかった。

それ以前に1対1の果たし合いが、どれほどの武士に求められていたのか。
竹刀で争う道場稽古で面目を保てれば充分であり、
戦乱の世が訪れるなど誰も考えていないのに、
武蔵は卑怯なまでに勝つことにこだわり、勝ち続けてきた自分を正当化しようとした。

それでも『五輪書』を読むと、生身で闘い続けた武蔵の血と汗が匂ってきて、
人と向かい合うときにどのように覚悟すれば良いのか、私たちに強い決断を迫ってくる。
実際に闘ってきた人の言葉だがら、それぞれのシチュエーションに説得力がある。

「どのような構えであろうと、構えようと思わずに、斬ろうと念じなければならない。
どう構えるかは状況で決まり、勝つためにどうすべきかで決まる」

こうした状況は、今の世の中でも充分に通用する。

兵法書としての『五輪書』は活かすところが少ないけれど、
人間関係の書として捉え直したとき、驚くほど納得できるところが随所に見られる。
人と関わる仕事をするなら、『五輪書』は目を通しておきたい基本書だ。

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2011年6月24日 (金)

『風姿花伝』(世阿弥)

檜舞台で演じられる能楽は日本文化を代表するものだが、
今に伝わる原型を築いたのが世阿弥の父、観阿弥である。

大和猿楽の結崎座を立ち上げた観阿弥は天才的な役者であると共に、
創生期の能楽の代表作を数多く遺した作家でもある。

当時の将軍、足利義満から寵愛され、観阿弥は飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、
巡業先の駿河で客死し、世阿弥が名跡を継いだのは弱冠22歳。

能に興味がない人でも、世阿弥が創った『高砂』という謡曲を、
結婚式などで耳にしたことはあるに違いない。

元々は大衆芸能から出発した能楽だが、その後も豊臣秀吉に賞賛され、
江戸時代に入ってからも大名に召し抱えられ、格式の高い芸術として生き延びてきた。

常に大衆から支持されてきた歌舞伎とは一線を画しているようだが、
世阿弥の遺した『風姿花伝』に目を通すと、
肉体を通して表現する共通項が浮かび上がり、演劇のルーツを見る思いがする。

「上手な役者にも欠点はあり、下手な役者にも長所はある。
これを見抜く人もなく、本人もわからない。

上手な人は名声に頼り、技術に隠され、欠点が見えない。
下手な人は自分自身で創意工夫しないから、どこが欠けているか理解できず、
たまたまある長所にさえ気づかない」

当代随一の能作家、能役者と持て囃されながら、
世阿弥は芸を磨くことに全身全霊を傾ける。
「芸のためなら女房も泣かす」と見得を切ったのは浪速の春団治だが、
時代や背景が異なっていても、何かに取り憑かれて極めるが芸道なのだろう。

「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。この分け目を知ること、肝要の花なり」

『風姿花伝』を象徴する一句は、こうした文脈から生まれてくる。
能役者はあらゆる世代を超え、
男女の性別や貴賤を問うこともなく、見事に演じなければ成立しない。
自分を前面に打ち出しすぎたら、伝えたい内容を伝えられない。

だからといって形だけを模していたら、誰も振り向いてくれず、
役者は舞台にひとり取り残される。どこの世界にも通じる真実だ。

『風姿花伝』は能楽の奥義だから、演じる際の細かい技術についても詳述している。
舞台に立とうとする人にとっては、これは紛れもなく実践的なテキストだ。
それぞれの年代や立場に応じて、与えられた役に対して、どのように考え行えば最善かを示唆している。

しかしそれ以上に興味深いのは、信ずる道をまっとうするには、
自分自身と向き合わねばならないことを教えていることだ。

「時流に乗って認められたことを、実力だと勘違いしてしまう気持ちが、
芸の本質に達する道を遠ざける」と諭され、
初心に戻らねばならないと受けとめるのは私だけではない。

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2011年6月23日 (木)

『徒然草』(吉田兼好)

清少納言の『枕草子』と並んで日本を代表する随筆だから、
誰もが一度は『徒然草』の一節を目にしている。

自分で読む気はなくとも、中学校の教科書に載せられているから、
否応なく覚えさせられた人も少なくない。
文法とセットになっていれば、なかなか中身を楽しめない。

しかし兼好法師という人は、決して優等生の発想はしない。
いつも世の中を斜めから眺め、小気味よく切り捨て憚らない。

世捨て人という立場だから、誰も口に戸を立てられない。
鎌倉幕府が衰退し、室町幕府へ移る頃だから、兼好ひとりに関わってもいられない。

ほぼ同時代を生きた鴨長明の『方丈記』と読み比べると、
『徒然草』の魅力が鮮明になってくる。

ひたすら無常観に捕らわれ、恨み節を綴った鴨長明に対し、
兼好法師は前のめりに世間と向かい合い、
ケレン味たっぷりに毒づいている。要するに陽性なのである。

「狂人の真似だと言って大通りを走り抜けていけば、それはもう狂人なのである。
悪人の真似だと言って人を殺せば、それはもう悪人なのである」と、
観念が先行する時代の中で、行動によってしか判断されないと喝破した兼好法師は、
知識人の陥りがちな罠に填らず、肉体で考えることのできた人物である。

それだからこそ『徒然草』は今も色褪せず、私たちの心の中でリズミカルに踊る。
横町の隠居に話を聞いているように、一つひとつ賢くなったような気にさせる。
とりわけ庶民に対するまなざしは深く、当時の人々が目の前に現れてくる思いだ。

「世の中に語り伝えられることは、
真実通りではおもしろくないのだろうが、ほとんど虚構でしかない。
人は真実より大袈裟に話をつくってしまうものだが、
歳月を経て場所も遠く離れてしまうと、話に尾鰭がついたまま文章として記録されて、
いつしか空言が事実として定まってしまう」と、
常に醒めた意識を持ちながら、兼好法師は『徒然草」を綴った。

犬が人を噛んでも誰も驚かないが、人が犬を噛めば耳をそばだてる。
そうすると作為的に犬を噛んで、衆目を集めようとする輩が現れる。
そのほうが商売になれば、噛みたくない犬を噛み続け、
犬を噛まない人を時代遅れと非難する。
同じような風景は、今も昔も変わらない。

私のような凡人は、犬を噛まないと指摘されると、
それが自分の至らないところと悩み、恐々ながら犬に近づこうとする。
逆に犬に吠え立てられ、這々の体で逃げていく。

そうした愚かさを戒めるように、兼好法師はこうも言っている。
「改めて益なきことは、改めぬを善しとするなり」

骨太の兼好法師の言葉に接すれば、失いかけた自分を取り戻せる。

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2011年6月22日 (水)

『正法眼蔵』(道元)

福井県の永平寺は、私のような門外漢が物見湯山で訪れても、
凛とした空気に背筋が伸びてしまう古刹である。
深い自然の懐に抱かれているロケーションもあるが、
それ以上に磨き抜かれた回廊から、僧侶たちの厳しい修行の日々が偲ばれるからだ。

道元が開いた曹洞宗は、強い意志を求められる禅宗の中でも、
ひときわストイックな宗派として知られている。

ただひたすらに座禅を続ける「只管打坐」という言葉も、
道元に対する鮮烈なイメージと重なり合ってくる。
それは『正法眼蔵』が伝えるものである。

道元は、既成仏教の最高位とされる紫衣を批判して、
袈裟に絹ではなく木綿を用いるよう勧める僧侶たちを一笑に付す。

本来の法衣は捨てられた衣を継ぎ合わせたもので、
糞掃衣と呼ばれていたことを思い出させる。
行き倒れた死人から衣を剥ぎ取り、それを身に纏うのが、
真理を求める僧侶には最も似つかわしいと説く。
たとえ丸裸にされても、道元は決して狼狽えない。

『正法眼蔵』の中には、顔の洗い方、歯の磨き方から、便所の使い方へ至るまで、
その理由を明らかにしたうえで、一つひとつをていねいに説明している。

窮屈なようにも思われるが、修行を観念的なものとして終わらせず、
それぞれの恣意的な解釈で歪められず、
正しい法則として普遍化させるには最も合理的な伝え方だ。
身体で覚えないことは、人は身につけられない。

こうしたフィジカルな思考回路をベースにしているから、
道元が釈迦の直弟子たちを描くにも臨場感が生まれてくる。

釈迦が差し出した一輪の花を、微笑んで受けた摩訶迦葉が、
後継者として布教の先頭に立ったのも、道元の言葉からすんなりと受け入れられる。

道元によれば「迷い」とは、
「自分にこだわって、自分の意識の外に在る世界を認識しようとする」ことであり、
「悟り」とは、「森羅万象の法則の中に自分を見いだす」ことである。

それを喩えて、「水に月が宿るように水と月が一体になり、
月が濡れることもなく水が破れることもない状態」としている。
自らを捨て去ることが、自然の中に溶け込む手法ではない。

こうした表現が、そのまま理解されるとは、道元は考えていない。
空理空論を重ねても、水掛け論に終わるのが関の山だ。
本当に悟りを開きたいなら、よけいなことは言わず、ひたすら座れば良い。

肉体の抵抗を脱却し、心が揺れ動かされなくなったとき、
人は宇宙の法則の中に、極めて自然体で受け入れられる。
座ることを拒めば、最初の一歩を踏み出せない。

道元の思想が自力本願と呼ばれるのは、行動への具体的な示唆があるからだ。
これは仏教に帰依しなくとも、すべてに通じる真実に違いない。
正しいか否かを知るより、行動を起こすのが大切である。

道元の言葉は、人生の軌跡に裏付けられているから、
過激でも浮き上がらない。

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2011年6月21日 (火)

『歎異抄』(親鸞)

岩波文庫の『歎異抄』で、本文は僅か50ページ、
解説を含めても100ページに満たない薄い本だ。

「弟子ひとりも持たず」と語った親鸞の言葉を、
唯円が誠意を伝えようと編纂したものである。

親鸞の教えた浄土真宗は日本全土に浸透し、
本願寺を拠点として一大勢力に成長したうえに、
歴史の転換に重要な影響を及ぼし続けている。
今もその流れは絶えない。

親鸞は比叡山で20年間、修行を重ねても悟りを開けず、
法然上人と出会い他力本願の啓示を受けた。

貴族政治から武家政治の転換期で、鎌倉幕府が禅宗を保護する政策を打ち出し、
念仏宗派の親鸞は越後に流されることになる。この地で恵信尼と結ばれた。

幕府から還俗を命じられた親鸞は、すでに僧侶と認められていなかったわけだが、
仏への思いは誰にも止められない。
越後から常陸へ移り、さらに京の善法房に居を構えるまで、親鸞は民衆に説法を繰り返した。

60歳を過ぎてから『教行信証』や『三帖和讃』を著したが、
私たちに最もわかりやすいのは、やはり『歎異抄」をおいて他にはない。

親鸞はひたすらに念仏を唱えるように説くが、それで極楽往生を約束しない。
死んでから後に地獄の業火に焼かれるか、それとも浄土で過ごせるのか、
親鸞にもわからないという。

それでも仏にすがるのは、師である法然を信じるからだ。
法然の言葉に騙されて、地獄に堕ちても後悔しないと言い切り、
揺るがない気持ちを持続させるから、人々の心は動かされる。

『歎異抄』は簡潔でありながら、それでいて骨太い。
よけいな注釈は加えず、強く覚悟を迫るだけでなく、
雑念を拭い去る清らかさに溢れている。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という一句は、
すべてを投げ捨て仏の慈悲に救いを求める意志である。

人は生まれながらにして、平等の環境では育たない。富める人もいれば、貧しい人もいる。
悪に染まりやすい人もいれば、まるで無縁な人もいる。
そうした人智を越えた天の配剤を、親鸞は恨むことなく受け入れる。

どのように生まれ育ち、何を行ってきても、
仏の前では同じ衆生とわかっているから、罪深き人と自らを分け隔てようとしない。

煩悩の晴れない私には、親鸞の潔さは眩しすぎる。
打たれても、流されても、親鸞は純粋に仏を信じ、
誰にも強制することなく、自らの後ろ姿ですべてを語り尽くした。
世間からの評価を気にしない。

『歎異抄』には、穏やかに暮らす奥義が伝えられている。
振り子のように定まらない心の内を見透かされ、剥がれ落ちない夾雑物を洗い流される。
大切なのは他人の目でなく、自分自身がどのように生きたいのか、
それを思い知ることである。

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2011年6月20日 (月)

『往生要集』(源信)

私たち日本人は、死ねば地獄に堕ちると考えている。
血の池や針の山、賽の河原で石を積む情景は、
私たちの脳裏に鮮やかに焼き付けられている。

誰も死んだことがないのに、見てきたように地獄のイメージを語るが、
そこに大きな影響を及ぼしたのが『往生要集』である。

源信は、942年に大和国葛城郡当麻村で生まれる。
9歳で比叡山に入り、慈慧大師に師事して13歳で得度受戒する。
37歳から著述活動を始め、44歳で『往生要集』を著している。

念仏による極楽往生を説き、生涯をかけて仏教の布教に努めた。

「願わくは衆生と共に彼の国に生まれん。願わくは諸々の衆生と共に安楽国に往生せん」と、
源信は常に人々と同じ地平に生きようとしていたが、
ひたすらに哲理を求めていた従来の仏教界から捉えれば、
こうした姿勢は実に画期的なものだった。

『往生要集』は、鮮烈な八大地獄の描写から説かれる。
「これでもか」と閉口するくらい、さまざな苦悶が私たちを襲う。
行き場のない絶望から、どうにかして逃れたいと願う。

これが「厭離穢土、欣求浄土」と呼ばれるもので、
無理のない形で人々に、極楽を求める気持ちを植え付けていく。
プレゼンテーションの手法としても、説得力のある文章構成である。

一転して極楽浄土は、瑠璃が地に満ちて金の縄で境界線が示されている。
五百億の七宝で宮殿や楼閣が建てられ、諸々の天人が常に音楽を奏でている。
池の畔には栴檀が香り、紫金の葉、白銀の枝、珊瑚の花で彩られている。
仏の広大無辺な慈悲に包まれて癒される。

わかりやすく具体的な風景を想像させることで、源信は着実に民衆の心を掴んだ。
これまでの高僧が成し得なかったことを、時代に先駆けて見事に表現した。
摂関政治華やかな背景を考えると、どれだけ凄いことなのかよくわかる。

やがて法然が浄土宗を開き、親鸞が浄土真宗を開き、
極楽浄土は仮想現実として根づいたが、
その原風景を耕したのは紛れもなく源信である。

それどころか宗旨宗派を問わず、今でも厭離穢土・欣求浄土の基本発想が、
人々を入信に導く回路として用いられている。

地獄にしても極楽にしても、現世の延長線上に位置付けられているから、
私たちは思わず納得してしまい、日々の行いに襟を正し身を慎む。

そのような計算が源信にあったわけでなく、
人々共に極楽往生したい強い気持ちが表現として結実したのだろう。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるというが、
他力本願を成就するにはストイックに生き、慢心を戒めねばならない。

誰かに運ばれるように往生できるわけでなく、
必死に念仏三昧に耽ることで可能性が開かれていく。

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2011年6月19日 (日)

『菜根譚』(洪自誠)

洪自誠は明代の人で、還初道人と号したと伝えられているが、
詳しい生涯の軌跡は遺されていない。

儒教、道教、仏教をそれぞれに修め、神仙の思想にも造詣が深く、
山林に隠遁して暮らしたという。
『仙仏奇踪』を編纂した後に、『菜根譚』を著した。

菜根とは、固くて筋が多い野菜の根である。
貧しくとも手に入れられ、よく噛めば滋養に富んでいる。
華やかさには欠けるが、ものごとの本質を捉えている。

自然の懐にひとり抱かれながら人間社会を鋭く観察し、
いかに生きるべきかの処世訓を身につける。

「穢れた大地は多くの作物を生み、澄みきった水には魚が棲まない」という言葉は、
この書物の内容を端的に表している。
俗世間と距離を置いているからといって、人は人の臭気を感じずに生きていけない。
不純物をすべて取り除いたら、自らの存在さえ危うくなる。

「卑しい立場に身を置くと、高位に昇ることの危うさが見える。
暗い場所に慣れると、明るい場所が隠れようのないことがよくわかる」、
洪自誠は必ずしも恵まれた境遇になかったと偲ばれる。
地べたに這いつくばりながら、苦渋の涙を飲み込んでいた。

それでも「一生懸命苦労している中に心の喜びがある」と、
自らを励ましながら弛まず修行を積み重ね、
「望みを遂げた得意の絶頂に失意の悲しみが襲う」と、
厳しく慢心を戒め続けていたに違いない。

時計の振り子のように揺れる心象風景が、今の時代の私たちに共感を誘う。

「逆境にあるときは、
周囲を取り巻くすべてのことが鍼や薬石となって節操や行動を磨くのだが、
本人はそれを知らない。

順境にあるときは、
目の前にあるすべてのことが刃や矛となって肉を溶かし骨を削っているのだが、
本人はそれを知らない」……。

こうした言葉が50の坂を越えると、私のような迂闊者にも身に染みてくる。
人間万事塞翁馬である。

変化が激しい時代に戸惑う私たちに、16世紀末に生きた洪自誠は
「世の中は仕掛けの中に、また仕掛けが隠されている。
思わぬ異変の後に、また異変が起こる。
わずかな知恵や技巧など何の頼りにもならない」と、語りかけている。
いつの時代にも、歳月は人を待ってくれない。

人におだてられたら木に登り、少しけなされたら項垂れる。
軽佻浮薄な私にしてみれば、『菜根譚』は人生の達人が説き明かす虎の巻である。
わかりやすい表現で軽く読ませてくれるから、落ち込んだ気持ちがいつの間にか晴れてくる。
天狗の鼻をさらに伸ばしていると、ポキリと折られるから要注意!

おもしろくて、ためになる読み物は、そうそうザラにあるものではない。

庶民に愛された『菜根譚』には、やはりそれなりの理由がある。
読んでいると中国の街の片隅で、知恵を授かっているような不思議な気分に襲われる。

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2011年6月18日 (土)

『三国志演義』(羅貫中)

蜀の劉備玄徳と義兄弟である張飛、関羽を中心に、
魏の曹操や呉の孫権など数多くの英傑が登場し、
中国を代表する歴史絵巻を繰り広げる。

TVドラマや映画からコミックまで、さまざまな形で紹介されているから、
『水滸伝』と並んで、日本人には馴染み深い物語である。

明の羅貫中が作者とされているが、前後数百年に渡って民衆の手が加えられ、
人物の奥行きが深まり、大胆な展開が際立っていった。
最も覇権に近い曹操ではなく、どこか線が細い劉備を主人公に据えたのも、
中国人の理想を映し出していたからに違いない。

桃園で劉備、関羽、張飛の三人が天下を志したときから、
この物語に一貫して流れるのは「仁義」というテーマである。
単に敵を打ち破るだけでなく、常に正しく勝つことを求められる。
曹操のリアリズムは、劉備のロマンティズムを凌げない。

劉備が諸葛亮孔明を軍師として招くのに、
三顧の礼を以て迎えた逸話はあまりにも有名だ。

日本でも石田三成が島左近を家老にするために、
領国の半分を差し出して懇願している。
石高ではなく三成の熱意に打たれ、智将・島左近は関ヶ原の露と消えている。

時代や国が異なっても、一流と呼ばれる人の心は、思いの強さでしか動かない。
それは情報化社会の現代にも、変わらず通用する基本原則だ。
劉備の志に応え、孔明は幾度も蜀を危地から救い出し、
死んでから後も敵軍を欺いて、名将として今も伝えられている。

『三国志』がおもしろいのは、こうした劉備や孔明の倫理観が、
次世代の劉禅に裏切られるところにもある。

趙雲に一命を助けられた劉禅は、劉備と孔明の没後に酒池肉林に溺れ、
ついには蜀を破滅へと導く。
親の苦労を知らない御曹司が、身につけた宝を自ら放棄する。

史実を下敷きにしていることもあるが、
『三国志』は単純な勧善懲悪として繰り広げられず、
読む人が歯がゆくなる場面も少なくない。

その一方で孔明は魔術師的色彩で描かれ、活劇的要素も充分に盛り込まれている。
劉備と孫権の連合軍が曹操の大軍を破る赤壁の戦いや、
孔明が戦死する五丈が原の戦いなど、クライマックスもきちんと準備されている。

『三国志』を読むたびに、中国の歴史に培われた人々の叡智が、
一筋縄では理解できない複雑なものとわかってくる。

毛沢東を中心に共産主義革命を成功させても、
教条主義に陥らずグローバルな国家戦略へシフトできるのも、
思考回路が多層的に組み立てられているからだ。

私たち日本人にとっても、『三国志』は懐かしい原風景である。

人が生きるときに何を胸に抱くのか、
志が果たされずとも生きる姿勢そのものが、幾星霜を堪え忍び私たちの心を震わせる。
それぞれの登場人物に、自分を重ね合わせるのも一興だ。

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2011年6月17日 (金)

『戦国策』(劉向)

劉向は紀元前79年に前漢で生まれ、高祖の傍系の血筋である。
若い頃から才覚を現したが、神仙方術に造詣が深いことから錬金術を進言し、
その失敗が宣王の怒りに触れて投獄される。
しかし一族の働きかけにより赦され、当時を代表する学者として重用されたという。

宣王に極めて近い立場にいたことから書庫の蔵書と自由に接し、
『国策』『国事』『修書』など題した竹簡を発見したことが
『戦国策』を編纂する契機となった。

劉向はこの他にも前賢先哲の逸話を記録した『説苑』、
堯・舜の時代より戦国末までの模範や戒めとするに足る
婦女の逸話を列叙した『古列女伝』を遺している。

『戦国策』では、やがて中国を統一する秦を中心に、周辺の諸国が合従連衡を繰り返し、
それぞれの思惑を胸に秘めながら、さまざまな駆け引きを巡らしている。

食客を数多く抱えた孟嘗君など、日本人に馴染み深い人物も登場し、
故事として語り継がれている逸話も少なくない。

「国が滅びたのは、賢人がいなかったからではない。
賢人を用いる器量のある人がいなかったのである」とは、
宰相の司空馬の言葉に耳を傾けず、武安君将軍を処刑した趙王に向けられたものだが、
今どきの経営者でも平然と聞き流すのは、フレキシビリティに欠けた人である。

大国の秦に対して、国の半分を割譲する講和案は、簡単に受け入れられるものではない。
自らが趙王の立場であれば、宰相や将軍を敗北主義と詰ったかもしれない。
当事者であるからこそ、状況を冷静に判断する力が薄れていく。

秦が韓を攻めた際に、楚の景翠将軍が秦に加勢しようと出兵した。
このとき周王は家臣の献策を重用し、将軍に謁見して語りかけた。

「あなたは官位、官職共に、楚の最高位におられます。
勝利を得てもそれ以上に進むことはなく、万が一に負ければ殺されます。
秦に加勢するより、傍観するのが賢明です」

これは秦の軍隊を疲れさせ、景翠将軍が無傷で睨みを利かせることで、
秦も韓も牽制すると考えた深謀遠慮である。
実際に両国は景翠将軍を恐れ、城や宝物を贈ることになる。

助言を感謝された周王は、領国の安全を手に入れた。
強いからと、無闇に戦わないほうが良い。

こうした逸話は実践に基づいているから、整合性に乏しい面もあるが、
私たちの現実に置き換えられるところが多い。
一貫して流れるのはバランス感覚の重要性であり、
猪突猛進を戒めた言葉がちりばめられている。

勝ちすぎず、攻めすぎず、治めすぎないことを説いている。

人間ドラマに満ち溢れた『戦国策』は、思想というより文学に近い。
泥臭い権謀術数の裏に、時代を真剣に生きた人間が見えてくる。

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2011年6月16日 (木)

『史記列伝』(司馬遷)

司馬遷は紀元前145年に、夏陽県の竜門で生まれた。

司馬氏は周の史官として代々仕えていたが、春秋時代の初めには洛陽を去り、
一族の中には秦の将軍となった司馬錯や、趙の剣術師範となった司馬凱など、
武術と兵法に優れた人物が輩出している。

司馬遷の父の司馬談は漢の太史公であり、天文と暦法をおもな職務としていたが、
自らの知識と思想を注ぎ込み、歴史書を著すことを夢に描いていた。
父の遺志を受け継ぎ司馬遷が『史記』を書き出したのは、
没後しばらくした42歳の頃と伝えられている。

それから5年後、親友である李陵将軍が敵に拘留され、
司馬遷は彼を必死に弁護することで、武帝の逆鱗に触れて投獄される。
そこに待っていたのは去勢の刑罰であり、
3年後に大赦で出獄してから、武帝の側近の宦官として生きるしかなかった。

40代半ばで男性機能を奪われても、日常生活に支障を来さないと考えるのは違う。
実際に性交渉を持つか否かでなく、可能性を最初から断ち切られることで、
司馬遷は人間としての尊厳を保てなくなった。
『史記』を著すことだけが、唯一の生きる術となる。

『史記列伝』に登場するのが覇王や英傑ばかりではなく、
刺客や遊侠の徒にまで光を当てているのは、司馬遷の波瀾万丈の人生と無縁ではない。
地の底で蠢く人たちを主役として描き出すことで、
自らの不条理に折り合いをつけ、人間存在の本質に迫ろうとしている。

その一方で周の蘇秦の言葉として、
「士たる者が頭を下げて書物の読み方を学んだところで、
名誉を獲得しなければ、知識が多いことなど何の役に立つものか」と、
現実の重さを痛いほど噛みしめている。

別のところでは「知ることが難しいのではない。
いかに知っていることに身を処するのか、それが難しい」と述べている。
知識の光と闇が、司馬遷の魂で交錯する。

『史記列伝』は70篇で構成されているが、
伝聞という形を借りて広い視野で歴史を捉える。
具体的な根拠に乏しいものも多く、政治家や学者の業績を時系列で追うわけでもない。

司馬遷の想像力の世界に、私たちが誘われている要素もあり、
史実よりは文学に近い表現である。

とりわけ『史記列伝』は特定の個人を選び、エピソードを伝えると共に、
司馬遷が論評を加えるスタイルだから、
それぞれのドラマが鮮明に映し出され、強い説得力で私たちに迫ってくる。
長い列伝の最後が「貨殖列伝」なのも、私にとっては示唆的である。

司馬遷が『史記列伝』で遺そうとしたのは、
実証的な史実ではなく、人間の真実に違いない。

数多くの逸話や箴言が後世に大きな影響を及ぼし、
さまざまな場面で当たり前のように引用されているのは、
司馬遷の世界が私たちの脳裏に刷り込まれているからだ。

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2011年6月15日 (水)

『韓非子』(韓非子)

韓非子は紀元前3世紀に、韓の諸公子として生まれた。

傍系であるうえに言葉が不自由だったことから、
性悪説を唱え礼による統治を説いた荀子に学び、
その後に法を統治の根幹とする商鞅に学び、
韓の国王に献策を繰り返したが採り上げられなかった。

韓非子の文章に着目したのは、皮肉なことに敵国である秦の始皇帝だった。
当時はまだ中国全土を統一していなかったが、
韓非子を得るために韓に攻め入り、使者としての派遣を要請した。
このとき荀子の同門の李斯が、すでに秦王に使えていたのが、韓非子の悲劇だった。

李斯は保身のために讒言し、韓非子を獄中に繋ぎ服毒死させる。
その後に韓非子の思想を実践し、秦が全土を統一した頃には宰相に栄達した。
始皇帝の継承に策略を労したが、二世皇帝の無軌道を非難して刑死する。
最期のところで李斯は、思想家として行動したに違いない。

韓非子の人間観の原型は、荀子の性悪説に基づいているから、
基本的に冷徹で容赦がない。

人間は自分の利益を追い求めて生きているから、
恩愛や情実に頼ろうとする考え方は甘いと断言する。
愛情に馴れてしまい、威勢に屈服するのが人間と、シニカルに指摘する。

「群臣が各々の意見を述べたら、君主はその意見に見合った仕事を与え、
それぞれに応じた実績を要請する。
実績が充分であり、内容が意見通りであれば賞し、そうでなければ罰する。
仕事に対する意見と実績が相応しないことは許されない」。

これが信賞必罰の出典となっているが、前提になっているのは群臣の意見である。
指示命令に従った行為は、最初から信賞必罰の対象になっていないのだ。
言われてやるのは仕事のうちに入らないから、意見を束ねる法が重要視される。

「法とは、人の罪過を押しとどめて私情をなくさせるものであり、
厳しい刑罰は法令を遂行して下々を懲らすものである。
権威は君主の外に立てられず、制令は君主とは別に出されない」と韓非子は説く。

「越王が武勇を好んだので、その民は死を軽んじる風潮が生まれ、
楚の霊王が細い腰の美人を好んだら、国中の女性が痩せようと飢えてしまった」と皮肉るが、
君主はそのくらい影響力を及ぼしたいと願っている。

韓非子は現実の場で揉まれていなかったので、頭の中で築きあげた観念に溺れる傾向は強い。
人間の弱さを認めようとせず、法を徹底することで理想に近づけると、
頑なに信じているのは否めない。

しかし正論を正論として主張して、一歩も譲らないその姿勢には、
間違いなく私たちが学ばねばならないものがある。

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2011年6月14日 (火)

『孫子』(孫子)

『孫子』は紀元前5世紀の初め、
春秋時代の呉王に仕えた孫武の著作と伝えられていたが、
その後の研究で兵法の家系である孫子が代々伝え、
紀元前3世紀、戦国時代末期に成立したという説が有力になっている。

何れにしても中国最古の兵法書である。

『孫子』が今の時代にも影響力を及ぼしているのは、
戦争が経済行為の一端という本質を見抜いていたからである。

「敵国を傷つけず、そのまま降伏させるのが最上の策」と考え、
食料の調達や兵士の徴用に細かな配慮を示し、
戦争を経済活動のプロセスとして捉えている。

『孫子』によれば、戦いに勝つための要諦は、次の5つの条件に絞り込まれる。

1 時機を得ること
2 適材適所に人を用いること
3 人心を掌握して目的に集中すること
4 準備周到に整え敵の油断を衝くこと
5 将軍が有能で主君が干渉しないこと

「彼を知りて己れを知れば、百戦して危うからず」という言葉も、
こうした環境を熟成させてからでなければ実効性が薄い。

勝つように準備を進めて、勝つための手を誤らず、
勝った後の対処を鮮明に描いた組織が勝ち、
勝つことだけを求める組織は必ず負ける。

「戦闘というものは定石通りの正法で敵と会戦し、
状況の変化に適応した奇法で勝利する」という一句は、
勝ち残るセオリーと読める。

基本ができていなければ闘いの場に臨めず、
マニュアルだけに頼っていたらライバルに競り勝てない。

「道には通ってならないところがあり、敵軍には撃ってはならない陣があり、
城には攻めてはならない場所があり、君命には受けてはならない言葉がある」
という文章を理解できるか否か、
読む人がどれだけ修羅場を潜り抜けてきたかを問われている。

言われたままの仕事しかやっていなければ、
『孫子』の含蓄に富んだ一言一句は的確に伝わらない。

『孫子』は、私たちのリトマス試験紙である。
置かれた立場が変わるごとに、新しい問いを発し続けてくれる。
短い言葉の意味が重く深くなる。

実際に『孫子』はさまざまに読み解かれ、時代の節目になると脚光を浴びる。
世の中が混乱してくると、原点を求める動きが強くなるから、
皆が『孫子』という座標軸に戻ってくる。

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2011年6月13日 (月)

『荘子』(荘子)

荘子は紀元前4世紀後半、戦国時代の宋に生まれた。
人生の大半を思索と著述で過ごしたというから、
夏目漱石が理想とするところの高等遊民である。

世間から重用されることもなく、
自分の世界を突き詰めるだけで、暮らせるだけの境遇に置かれていた。

荘子は老子と結びつけられ、老荘思想と言われているが、
共通するのは個人をベースにして、世界を切り分けていたことである。

老子と比べるとさらに観念的で、現実と架空の境界線を設定していない。
それだけに読んでおもしろく、ファンタジーの印象すらある。

「北の海の果てに大魚がいて、その名を鯤という。
鯤の大きさはいったい何千里あるか、見当もつかない。
あるとき突然鳥となって、その名を鵬という」という書き出しは有名で、
「大鵬の志が、小鳥などにわかるか」と続く。

この文章が不遇な人の心を揺り動かし、さまざまな場所で引用されているから、
どこかで目にしたり耳にしたりすることも多い。

荘子の言葉は警句となって、「朝三暮四」「蟷螂の斧」など故事の出典に挙げられる。
アイロニカルな内容が多いが、表現が卓越しているから、多くの人の心と共鳴する。
そう考えるとますます荘子は思想というより、洗練された文学の趣が強くなる。

「沢辺に棲む雉は、十歩あゆんでようやくわずかの餌にありつき、
百歩あゆんで僅かの水を飲む。それでも籠の中で養われようとは思わない。
籠の中では餌や水を充分に与えられて、心身共に健やかになるだろうが、
少しも心楽しむところがないからだ」

こうした一節にぶつかると、荘子の立場がよくわかる。
とりわけ若い世代には、魅力的に感じられるに違いない。
私は四〇代半ばで独立する前に、心に引っかかったことを覚えている。
餌や水を得るのに苦労していないから、自由への憧憬を抱けるのだが……。

孟子が「恒産なくして恒心なし」と語った対極に、
荘子は痩せ我慢して立っている。

生も死も自然な流れと受けとめて、その状況を素直に喜びながら、
他人から支配されることは排除しようとする。
突き詰めていけば、観念の世界に身を委ねるしかない。

竹林の七賢人に継承される中国の代表的な思想で、
気宇壮大な『荘子』を読んでいると、
疲れた心を癒されて再び闘う意欲が湧いてくる。
現実と乖離しているからこそ値打ちがある。

荘子は名誉や栄達を根本的に否定し、あるがままの自分を受け入れる。
ひとつの視点で捉えれば受動的な処世術だが、
別の角度から見れば無理のない生き方である。

思い通りにならないときに、自分自身をあきらめないために、
『荘子』をヒントにするのもおもしろい。

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2011年6月12日 (日)

『孟子』(孟子)

孟子は紀元前372年に生まれ、孔子の孫である子思の門下で五経を修めている。
当時の中国は戦国時代で、実践的な戦略論が重視されたから、
孟子の説く理想論は世事に疎いと判断され、
没後は顧みられることもなく、秦の始皇帝の焚書坑儒の対象にさえならなかった。

唐代の文学者、思想家として知られる韓愈が、
『論語』や『中庸』と並び称したことから復権し、
明代に朱子が『集註』を著すことで儒学の祖として認知されている。

日本では吉田松陰が著した『講孟余話』が有名だが、
江戸時代初期にはすでに高く評価されている。

孟子の思想は性善説であり、
人民に生業を与えれば、本来の性行が発言されると説いている。

人の心の中には「ヨチヨチ歩きの幼児が井戸に転げ落ちそうになると、
誰もが駆け寄って助けようとする気持ち」がある。
何も報酬を得られなくとも、悪を憎み善を好むのが人間だという。

人間が一番重視するのは道義心であり、
必ず踏み歩くべき正道から外れたら、死ぬことさえ厭わないと繋げていく。

孟子の目から見た人間は、どこまでも清らかで純真だ。
封建社会を是認させる倫理として、支配層が普及に努めたのも納得できる。

孔子の野太さが、孟子によって洗練されることで、毒気が抜かれてしまっている。
千五百年の歴史の闇から、孟子を掘り出した朱子の慧眼は、
孔子と孟子を一括りにすることで、庶民の道徳観を形づくっていく。

孟子の本来の持ち味は、社会評論家としての資質である。
今から二千年以上前に、
商品税や通行税を廃止して、市場を活性化するよう提唱している。

「人はしてはならないことをしないという決意があって、初めて大事業を成すことができる」。
私たちが仕事に取り組む基本姿勢として、充分な説得力を持っている。
こうした視点は、まったく古くなっていない。

孟母三遷のエピソードで窺えるように、孟子は純粋培養された知識人である。
人間に対する祈るような信頼は理解できるが、
生身の人間の泥臭さは伝わらない。
間違ったことを口にしていないが、温もりが足りない気がする。

それだけに理想家肌の人には、孟子の言葉は深く染み渡る。
松下村塾を開き長州藩から維新の志士を輩出させた吉田松陰は、
萩の獄中に幽閉されていたときに一心不乱に『孟子』を読み、
自らの思想を鋭く純化させていった。

それだけの影響力が、『孟子』には秘められている。

私のような天の邪鬼は、孟子を斜から構えて読むから、人間論と社会論を切り分ける。
孟子が説くほど世の中にお人好しが多いとは思わないけれど、
一人ひとりの自律性に委ねたほうが経済は確かに活性化する。

その切り口だけ捉えても、『孟子』は読むだけの価値はある。

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2011年6月11日 (土)

『老子』(老子)

老子がいつの時代に生きたのか、さまざまな説が流布されているが、
孔子を強く意識していたことは、全編を読めば間違いなく伝わってくる。

『老子』を読むといつでも、
ドフトエフスキーの『地下生活者の手記』と重ね合わせてしまうのは、
私だけなのだろうか。

孔子には旅人のイメージが強く漂っているが、
老子は書斎から一歩も動かない感がする。
その語り口はモノローグで、聞く人の反応を期待していない。

「大いなる道が衰えたときに仁義という考え方が興り、
知識や賢さが評価されるようになったときに大きな偽りも生まれ、
近しい親族がお互いに不和だから孝行息子が話題になり、
国家が乱れ治まらなくなってから忠臣の価値が高まってきた」と説く。

アイロニカルな視線は、王道を歩む人に背を向けている。

老子の中心思想は「無為自然」だが、
これはあるがままの状態の人間社会ではなく、
為政者による人民の支配を認めている。

人々の生活を侵犯しない君主を理想としているのは、
孔子と相通ずるところであり、
この時代の中国では論議するまでもない常識だったに違いない。

今の時代を生きる私たちが読むと、論理的に中途半端な印象を受け、
ノスタルジックな回帰願望かと疑うところもある。

水のような生き方を提唱するが、一歩間違えれば優柔不断の誹りを免れない。
人と争わずわが道を行くのが、老子の真骨頂かもしれない。

それでも老子に魅かれるのは、
私たちにまとわりついた虚飾を剥ぎ取り、
生まれたままの姿に戻して癒してくれるからである。

自分と他人は同じではないという当たり前のことを諭され、
身体の中に溜まったガスを抜いてくれるのが『老子』である。

闘う気持ちが盛んなときに読むと、どこか足止めされるようで苛立つが、
逆境に陥ったときは一言一句が心に染みる。

同じ文章が綴られているのに、状況しだいで表情が変化する。
それだけにさまざまな解釈が成り立ち、賛否両論が渦巻く。

老子によれば「道は広くて大きいから愚かに見える」ので、
小さなことにこだわっている人物には老子の価値はわからない。
荘子のような理解者が現れたことで、
老子の骨格は肉付けされ豊かに伝えられている。

老子は常に人間と自然を対比させている。
人間の本性を自然との融和に求めることで、
自然の延長線上の身体機能を持つ私たちに、強い説得力として迫ってくる。

『老子』を読むときは、寝転んで読むのが良い。
『老子』を介在として自分自身と向かい合えば、肩の力がスーッと抜けていき、
今まで気づかなかった新しい自分と出会える。

生きることが少しだけ楽になる。

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2011年6月10日 (金)

『論語』(孔子)

孔子が生まれたのは紀元前552年だから、
『論語』は気が遠くなるほど昔の本である。

それでも読み返すたびに考えさせられるのだから、
人間という生き物はそれほど進化していないと思わざるを得ない。
一つひとつの言葉が、臨場感を持って伝わってくる。

孔子は下級貴族の出身で、若い頃は倉庫番や牛や羊の牧童を務めていた。
師につくこともなく30歳で学者になったが、
故郷の魯を追われたこともあり、表舞台に立つことは少なかった。
それでも多くの弟子に恵まれ、晩年は再び魯から招かれ74年の生涯を閉じている。

孔子の思想の中核にあるのは、仁義と礼節であり、
現実的な社会秩序を認めている。支配階級の存在を踏まえたうえで、
民衆に対する慈愛が必要と諭している。

孔子が理想としたのは堯舜の時代であり、
王が王としての役割を果たしていた世の中である。

それが封建社会の倫理規範となり、
支配階級が奨励する学問として発展したのは、
孔子が多く語ったのは政治ではなく、そこで生きる人々の哲学だったからである。

どのような治世でも、融通無碍に適用できる。
これは『論語』の限界であると同時に、今にも通じる普遍性である。

私たちが『論語』を読んで胸を突かれる一節は、
組織社会の中での人間関係に当てはまるところである。
人事異動の後なら、
「人が自分を評価しないことを憤るより、
自分に能力がないことを嘆かねばならない」
という文章に、思わず頷いてしまう。

若手から突き上げられている中間管理職者なら、
「若い人を恐れるべきだ。彼らが将来にわたり今の自分を追い越さないと、
どうして知ることができるだろうか」という言葉に、
身震いするほどの切迫感を持つ。
三日間会わないだけで、目を見開かなければならない。

孔子が自らに対して、
「私に学問はあるだろうか、いやたいした学問はない。
だから、どんな人からでも真面目な態度で問われたら、
私は隅々まで応えられるように一所懸命に尽くすだけ」と語っているが、
まさしく企業組織で生きる処世術の模範である。

孔子は王に対して、刃を向けようとしない。
孔子という人物に私心はなく、長年の流浪生活で苦労もしているから、
組織社会で生きる人にとって、『論語』は多くのヒントを示唆している。
世間の荒波を渡るには、含蓄に富んだ文章が溢れている。

ときおり読み返すと、その都度異なる表情を見せるのも、
歳月を経た古典の力に違いない。
今の私にとって『論語』は、人間を知るためのテキストであり、
組織社会でのケーススタディである。
しばらくしてから再び手に取れば、また新しい世界を開いてくれる。

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2011年6月 9日 (木)

読み切れない人生がおもしろい02

① いつでも今がスタート地点

今まで恵まれた人生を歩んできた人も、
不遇に泣いてきた人も、
柩の蓋が閉ざされるまで、
何が起こるか予測できません。
「こんなものだ」と、思い込んだら、
そこから先は開かれないのです。
今の自分を守るにも、
日々チャレンジの精神が必要です。

② 人間の評価は時価で決まる

過去にどれだけの実績を誇っても、
今の時点で必要とされない力なら、
残念ながら無用の長物と割り切ることです。
たくさんの本を読んだことが評価されるのではなく、
そこから得た知識を
現実に活かせるから認められるのです。
蔵書に潰されないことです。

③ 知識は単に道具に過ぎない

古今東西の博識を身に付けて、
得意満面に蘊蓄を傾けても、
その場で気持ちよくなるだけです。
新しい情報は次々と発信され、
時代状況は刻々と変わっていくのですから、
求められる知識も同じであるわけがわりません。
使えない知識なら、しまっておきましょう。

④ 三日会わないと人は変わる

人を見抜いたつもりでいても、
次に会うときには、変わっているかも知れません。
とくに若い人ほど、成長は著しいのです。
そのときは正しい洞察でも、
固定して考えないほうが賢明です。
フレキシブルに、新しい価値を認めましょう。

裏から表から読み尽くしたつもりでも、
読み切れないのが人生の奥深さです。
それでもなお読もうとする意欲を湧かせ、
理解しようとするのが人間の値打ちです。

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2011年6月 8日 (水)

読み切れない人生がおもしろい01

伊能忠敬が日本地図の測量を志したのは、
50歳で隠居して、
19歳年下の高橋至時に師事して天文学を学んでから。
それまでの忠敬は、婿養子先の造り酒屋を再興し、
米の仲買で財を成した商人でした。
私たちの知る忠敬は、50歳からの忠敬なのです。

本願寺中興の祖として知られる蓮如も、
43歳で8代法主になるまでは、
暗く貧しい部屋住み生活を強いられてきました。
越前吉崎に道場を開き、
本格的な活動を始めたのは、
実に蓮如が57歳になるまで
待たなければならなかったのです。

彼らが20代や30代のときに、
自分の人生に見切りをつけていたら、
私たちの知る伊能忠敬や蓮如は存在していません。
可能性を追い求め、チャレンジを繰り返したから、
道が開けてきたのでしょう。
私自身、定年まで会社に勤めするはずでした。

そうかと思えば、
順風満帆で出世コースを昇り詰め、
政財界での評価も高く、
地位も名誉も財産も手に入れた人が、
贈収賄事件で逮捕され、
晩節を汚したという話もあります。
人間万事塞翁が馬といわれますが、
何が起きても不思議でないのが人生です。

平坦な道で転ばない杖として、
読む技術を身に付けることは賢明ですが、
読み切れないことも多いから、
生きている値打ちがあるのです。
何もかもスケジューリングしたつもりでいても、
急にキャンセルが告げられたり、
新しいチャンスが飛び込んできます。

読む技術を本物の力にするには、
自分自身を疑い続け、
蓄積した知的財産を検証し続けることが必要です。
今の状況で求められる力を発揮できなければ、
正確に読み切れたとしても
自己満足に過ぎないのです。
厳しく自分を鍛える覚悟を決めることです。

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2011年6月 7日 (火)

時代そのものに溺れてみよう02

① どんな流行にも飛びつこう

美味しいと評判のラーメン屋があれば、
駆けつけて行列の最後に並びましょう。
人気のミュージシャンのコンサートなら、
徹夜してチケットを手に入れましょう。
わかったような顔をして通り過ぎるより、
バカになったほうが時代を体感できます。

② 新しいものに興味を持とう

CFや新聞広告で盛んに売り込んでいる最新商品は、
横目でチラリと眺めているだけでなく、
ショールームに足を向けたり、
カタログを取り寄せましょう。
買うのか、買わないのか、
懐具合もありますから、二の次の問題です。
興味を示すことが肝心です。

③ 誘われたら乗ってしまおう

新しい経験ができるチャンスは、
決して見逃さないことです。
話題になっているレストランに誘われたら、
フランス料理は苦手などと、
尻込みしてはいけません。
ワインがブームになっているなら、
日本酒が好きでも、
断る理由にはなりません。

④ 頭で考えるのは最後で良い

時代を読むために一番大事なことは、
身体で感じ取ることです。
明らかに非合法なことや、
不利益をもたらすことは、
常識で判断できるでしょう。
それ以外のことならば、
とにかく行動することです。
リクツを言うのは、その後からにしましょう。

時代というものは、
私たちの外にあるのではなく、
私たちが関わって創っていくものです。
当事者として行動しなければ、
時代の感性は読めないと考えましょう。

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2011年6月 6日 (月)

時代そのものに溺れてみよう01

人間を活かしてくれるのは、
時代という多面体の器です。
さまざまな時代を経て、
自分が生まれてきたのです。
今いる時代に全身をどっぷり浸け、
おもしろいことを探しましょう。
新しい現象が起きたら、
野次馬精神を発揮して、
首を突っ込みましょう。

同時代を生きていなければ、
感じられないものも多く、
触れるチャンスが訪れたなら、
シッカリ握って放さないことです。
自分に向かないと判断したら、
その時点で切り捨てても間に合います。
色メガネを外して、
フラットな視線で見つめましょう。

他人に迷惑さえかけなければ、
何をやっても許される時代です。
共同体のモラルという呪縛から、
これほど解き放たれるとは、
先人の誰も予測し得なかったでしょう。
それだけに、
頼りない現実感に悩んでいる人も増えています。
規範が失われているのです。

ツールやシステムの急速な進化に、
人間が追いつけない時代なのかも知れません。
インターネットなど、
メディアがバーチャル世界で拡散されていくと、
顔が見えなくとも声が聞こえるようになります。
隣の人が何をやっているのか、
わからなくても良いのです。

そうした諸々の現象を、
すべて受け入れてみましょう。
大きく深呼吸して、
きれいな空気も汚れた空気も、
胸いっぱいに吸い込めば、
身体中で時代を感じられます。
悲しければ悲しい現実を、
楽しければ楽しい現実を、
真正面から受けとめましょう。

価値観というフィルターを通せば、
不要なものは濾過されて、
必要なものだけが抽出されます。
こうしたプロセスを経なければ、
時代という怪物は、
輪郭を現してくれないのです。
ただ待っているだけでは、
時代の中で勝ち残れないでしょう。

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2011年6月 5日 (日)

人間そのものを好きになろう02

① 同質の人を好きになろう

読んでいて共感を覚えたり、
心が穏やかになる著者は、
自分と同じ価値観を持っています。
悩んだときや疲れたときに、
やさしく癒してくれる相手です。
昔からの友人と同じように、
掛け替えのない財産です。
読書計画の中心に据える著者と考えましょう。

② 異質の人を好きになろう

意見が真っ向から対立したり、
感情を逆撫でされるような印象を受けたら、
人間としての器を
大きくしてくれる著者と思いましょう。
著者と自分との距離感を確かめながら、
謙虚に学ぶ態度が求められます。
自分自身に執着せず、
フラットな視線で読みましょう。

③ 過去の人を好きになろう

人類の知的財産は膨大であり、
汲んでも涸れない泉のようです。
1,000年の風雪に堪えた言葉が、
柔らかな感性に染み渡っていきます。
孔子や老子の人生の英知は、
今なお新鮮に響きます。
あえて襟を正さなくとも、
自然に頭を垂れる珠玉の文章です。

④ 未来の人を好きになろう

人間がこれからも繁栄することを願い、
辛口のコメントを書き続ける著者は、
心の温かい人です。
人生という舞台から退いたら、
後は野となれ山となれでは、
淋しい話だと思いませんか。
少しでも人の役に立つ文章は、
力強く励まされるものです。

世の中には、いろいろな人がいるから、
おもしろく過ごせるのです。
食わず嫌いしないで、
さまざまな著者と出会いましょう。
確実にキャパシティが大きくなります。

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2011年6月 4日 (土)

人間そのものを好きになろう01

読むという作業は、
理解することを目的とします。
関わっている世界の全体像を知ることで、
自分自身を主役にした人生を送りたいから、
人間はさまざまなものを読むのです。
書き表された言葉だけでなく、
その奥に秘められたメッセージを探ります。

どれだけ深く読み込めるかは、
どれだけ対象に打ち込めるかで決まります。
知識を得るにも、人物から学ぶにも、
読む人の情熱が強ければ強いほど、
たくさんのメッセージが伝えられるのです。
読書量を誇るより、
真剣に向かい合うことが大切です。

集中力を高めて深く関わるためには、
興味を持たなければなりません。
誰かに強制されたり、義務感で読もうとせず、
読書を楽しむことです。
人間そのものに関心を抱き、
もっと距離を縮めようと願えば、
さまざまな情報が向こうから寄ってきます。

どんな本を読むときにも、
著者の主張を素直に受け入れることです。
最終的に批判したり、否定するのは、
読む人の判断で良いのですが、
最初から斜に構えて読むくらいなら、
時間潰しになるだけですから、
他のことをやったほうが生産的でしょう。

初対面の人と会うときは、
いろいろな評判を耳にしていても、
先入観を持たずに話を聞くでしょう。
そのうえで話の内容を判断し、
人物に対する評価を下すものです。
本を読むときも、
まったく同じように考えれば良いのです。
心を開いて接しましょう。

人間関係のポイントが、
相手を好きになることであるように、
読み方を上達させるには、
人間を好きになることが一番大事です。
正統派の知識人を崇拝するだけでなく、
異端の系譜に連なる人も含めて、
人間という存在に興味を持ちましょう。

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2011年6月 3日 (金)

エロティシズムを読むヒント02

① 文学からアプローチする

エロティシズムは文学の主要なテーマですから、
読まなければならない本は無尽蔵です。
G・バタイユの『エロティシズム』や、
ボーボアールの『第三の性』は、
すでに古典と考えても良いでしょう。
近松門左衛門などは、
情念の世界を知る手がかりになります。

② 芸術からアプローチする

彫刻や絵画など、ルネッサンス期の作品を中心に、
エロティシズムの美学は追求されています。
一番わかりやすいのは、やはり映画でしょう。
マリリン・モンローが20世紀の衝撃であったように、
エロティシズムを五感でイメージさせる表現手段です。

③ 歴史からアプローチする

キリスト教の歴史は、
エロティシズムに彩られています。
魔女裁判などの異端糾問は、
個人の精神の深部を白昼にさらけ出すことで、
大衆心理を操ろうとする意図が表れています。
百年戦争を駆け抜けたジャンヌ・ダルクも、
エロティックではないでしょうか。

④ 社会からアプローチする

エロティシズムは、
社会規範の中で位置付けられます。
『古事記』や『日本書紀』の神話世界から、
性の社会的役割は明らかにされています。
個人のエネルギーが、
いかに集散されていくのか、
そのシステムを知ることで、
エロティシズムの本質に迫りましょう。

エロティシズムの擬態は、
夕暮れの街の灯りにも表れます。
そうした現象も含めて、
人間という存在を理解しましょう。
薄っぺらに捉えないほうが賢明です。

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2011年6月 2日 (木)

エロティシズムを読むヒント01

性欲は、食欲や睡眠欲と並ぶ
人間の基本的欲求ですが、
生殖以外の目的で性行為を営めるのは、
地球上のあらゆる生物の中で、
ただ人間だけといわれています。
実際の性行為に及ばなくとも、
イメージをふくらませることで、
エロティックな気分に浸れます。

個人の領域に置かれているはずのエロティシズムが、
古来から大きなテーマに成り得ていたのは、
人間が生きる強いモチベーションであり、
最も親和的なコミュニケーションだからです。
社会秩序をコントロールするには、
制度化する必要があったのです。

『聖書』の中でも、
近親相姦や同性愛が禁じられていますが、
それはモラルというよりも、
種の存続を実現するために
子孫を産み増やさなければ、
人類の歴史が途絶えてしまうからです。
タブーとされていることは、
逸脱した現実が存在したという証明です。

知識と経験が蓄積されて、
人間の意識が広がりを持つに連れて、
性のタブーもさまざまに演出されます。
個人を共同体の支配下に治めるためには、
性的なイメージを抑圧することが
効果的だったからでしょう。
権力者は性意識を規範の内側に閉ざしました。

個人の内的エネルギーの発露は、
文学や芸術として表現され、
人々の意識の中の性に対するタブーも、
しだいに緩やかになっていきます。
共同体と個人の確執は、
法廷の場で争われ、
長い時間をかけながら、
性に対するイメージは自由になっていったのです。

日本でも、伊藤整が翻訳した『チャタレー夫人の恋人』、
渋澤龍彦が翻訳した『悪徳の栄え』を巡り、
エロティシズムについての論議が尽くされました。
開放されるに連れて魅力が薄れていくことも、
エロティシズムの謎が深いことを示しています。

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2011年6月 1日 (水)

大衆文化と風俗を読むヒント02

① お金を何に使うのか

食べるのに精一杯な国民は、
文化どころではありません。
余剰価値が生まれてこそ、
文化の恩恵にあずかれるのです。
生活費を払い終わった後に、
お金をどう使うのかで、
文化レベルが推し量れます。
きれい事だけでは、
文化レベルは高められません。

② 明日はどうなるのか

文化とは、未来に繋げようとする向上心です。
今日よりも明日を充実させたい意欲が、
新しい価値を具体的に創り出していきます。
生活を便利にしようと道具を改善するのも、
立派な文化であることに着目しましょう。
文化は大仰なものではありません。

③ 健やかに暮らしたい

心身ともに安全を保障され、
病気に悩まされることもなく、
天寿をまっとうしたいのは、
普通の人間なら誰もが望む願いです。
秦の始皇帝の時代から、
不老不死の秘薬を求めて、
人々は長い旅を続けてきました。
こうしたベーシックな欲求を理解しましょう。

④ 安楽な人生が桃源郷

現代の大衆文化のコンセプトは、
快適で頑張らない生活です。
ラクして儲ける方法を、
虎視眈々と狙っている人が、
あちらこちらで群がっています。
旧来の価値観が音を立て崩れて、
新しい大衆文化が生まれる予兆です。
安楽な人生を、他人は与えてくれません。

大衆文化の担い手は、
マスメディアではなく、
私たち一人ひとりです。
高い次元で文化を享受したいなら、
私たち自身が研鑽を怠らないことです。

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