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2007年9月23日 (日)

彼岸に思う

 赤い花なら曼珠沙華、彼岸花として知られている。隣町の巾着田が自生地として有名なので、この季節に何度も訪れているが、高麗川の清流を背景に、一面に咲き乱れる姿は流石に見事。曼珠沙華には、天上の花という説もあるらしい。

 春のお彼岸には牡丹餅、秋のお彼岸にはお萩、幼い頃はそれで済んでいたが、祖父母が逝き、妹が逝き、親しい友が逝き、そして孫までが逝くと、西方浄土を身近に思わざるを得ない。此岸と彼岸は結ばれているのに、逝った人たちは二度と再び戻ってこない。

 夏の終わりに、妻と娘と孫と巾着田に遊んだが、水車小屋の近くに大輪の蓮の花。和義はお釈迦様の胸に抱かれて、可愛がられているのだろうか。思わず涙ぐみそうになる。和義の幸せを祈るには、線香を手向け、手を合わせることくらいしかできない。

 まだ百日を少し過ぎただけなのに、遠い昔のような気もする。和義が、いきなり抱きついてきそうにも思う。私でさえこうなのだから、妻や娘や孫の心には、埋められない大きな穴が開いている。決して忘れられないが、歳月だけが傷を癒してくれるのだろう。

 いつも笑っている子だった。私に懐いてくれた。抱き上げると涎を垂らすのだが、それが今では堪らなく愛おしい。娘の香織と孫の愛を幸せにすることが、和義の遺志と信じてる。何かをしてやるのでなく、ただ見守って、いつでも抱きしめてあげる。

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